ヤマハの「聖域」に潜入! コミュニケーションプラザの展示車両すべてに「命」を吹き込む職人の技

ヤマハコミュニケーションプラザの展示車両をレストア&メンテナンスする3名のエンジニアに話を聞いた
  • ヤマハコミュニケーションプラザの展示車両をレストア&メンテナンスする3名のエンジニアに話を聞いた
  • レストアは「生命を吹き込むような仕事」と話す花井眞一さん
  • レーシングマシンを仕上げるのとは異なるプロセスが新鮮と話す石井聡さん
  • 「時代を超えて同じ課題に向き合えるのが楽しい」と話す井田真稔さん
  • ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両
  • ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両
  • ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両
  • ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両

存在自体は秘匿ではなく、外観を臨むことは誰にでもできる。しかしながら内部はヴェールに包まれ、ヤマハ発動機の社員ですら、そこへ立ち入った者はさほど多くない。それゆえ、時に「聖域」と表される施設が静岡県磐田市にある豊岡技術センターである。

ここで何が行われているのか。その全貌を窺い知ることはできないが、ひとつ明らかなのは、ヤマハ発動機がこれまで世に送り出してきた車両のレストアとメンテナンスを担い、それらすべての動態保存を手掛けている部門があることだ。今回、そこに所属するスペシャリストに話を聞くことができた。

■インタビュー参加メンバー
ヤマハ発動機 コーポレートコミュニケーション部
インターナル・コミュニケーショングループ
花井眞一
石井聡
井田真稔
(敬称略)

ヤマハ コミュニケーションプラザに展示される車両はすべて工場出荷時の状態までレストア(動態保存)されるヤマハ コミュニケーションプラザに展示される車両はすべて工場出荷時の状態までレストア(動態保存)される

ヤマハ発動機(以下、ヤマハ)が運営する企業ミュージアムが、本社に隣接する「コミュニケーションプラザ」だ。同社の過去から現在、そして未来が見渡せる施設として1998年夏に完成し、さまざまなイベントや展示が催されてきた。

コミュニケーションプラザ設立の企画は、95年に立ち上げられた。社内公募によって初期のスタッフが決まり、常設展示の主役とも呼べる歴史車両のレストアがスタート。その開館時には当時の最新モデルはもちろん、かつての輝きを取り戻した市販車20台、レーシングマシン4台が披露され、オープニングを彩った。

以来、レストアとメンテナンスが粛々と進められ、豊岡技術センターで管理されている収蔵コレクションは、現在ゆうに250台を超える。途方もない時間と労力を要し、そして終わることのない作業ではあるが、わずか3名の職人にそれが託されているというから驚く。

◆「人間にいちばん近い乗り物」だからこそ

ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両

----:このフロアに立ち入った時、思わず声が出たほどの圧巻の眺めでした。レストアはどのような流れで進めているのですか?

花井:基本的にすべて計画にのっとった作業です。「今期はなにをどこまでレストアするか」という予定を立て、それが終われば状態を維持するためのメンテナンスがスタート。その繰り返しです。

----:きりがないですね。

花井:ヤマハが謳った昔のコピーに「人間にいちばん近い乗り物なんだ」というものがありますが、その言葉通り、バイクはやはり命ある存在なんですね。だからこそ、見た目だけではなく動態保存であることを重視していますし、人の体に血を巡らせるのと同じような気持ちでこの仕事に従事しています。

----:レストアには、どれくらいの期間をかけているのでしょう。

レストアは「生命を吹き込むような仕事」と話す花井眞一さんレストアは「生命を吹き込むような仕事」と話す花井眞一さん

花井:基本的には計画を立てた期内、つまり1年以内を目途にしていますが、ベース車両の状態によっては2年ほど要することもあります。なにせ、ここには3名しかいませんから、レストアとメンテナンスを分担しながら、常に複数台を同時進行で作業しています。

----:年代の新しいものはさておき、50年代や60年代にさかのぼると、会社で所有していない車両も多数あるかと。それらはどうやって探してくるのですか?

花井:さまざまですが、どうしてもない車両はオークションや中古車サイトを介して入手することもあります。また、時には一般のお客様からの寄付や譲渡もあり、そのご厚意に感謝しています。

『YDS-1』(1959)。エンジン開発を担い、後に社長を務めた長谷川武彦氏がコミュニケーションプラザの設立をけん引した『YDS-1』(1959)。エンジン開発を担い、後に社長を務めた長谷川武彦氏がコミュニケーションプラザの設立をけん引した

----:レーシングマシンはどうですか?

花井:ファクトリーマシンの場合は、役割を終えた個体をレース部門からこちらへ移管していますが、市販レーサーは外部から入手することもあります。レーシングマシンのレストアで難しいのは、まずデータや資料が少ないこと。そして、素材の復元性ですね。たとえば、劣化したマグネシウムは耐久性を踏まえてアルミに置き換えるなど、なんらかの対策を行うことになります。できるだけオリジナルの状態を維持しつつも、動態保存が可能な施策を優先。これはレストアチームが発足した時から変わらない、大きな指針のひとつです。走らせられるかどうかで、その車両の付加価値がまったく異なると考えているからです。

----:公道向けの市販車の場合は、データはすべて残っていますか?

花井:いわゆる(デジタルな)データではなく、きちんと整理されていたわけでもありませんが、図面自体はほとんど残っています。ただし、マイクロフィルムだったりするので、探すのは結構大変ですけど(笑)。欠損しているパーツは、図面にしたがって新たに制作するわけですが、今は金属モノの3Dプリンタなどが進化しているため、以前よりはなんとかなる場面が増えました。逆に意外と苦労するのがガスケット類。昔は使用可能だったアスベスト材はシール性能に優れていて、そのおかげで高くなかった工作精度をカバーできていたという側面があったからです。

ヤマハ初の市販車となった『YA-1』(1955)。そのスリムさと車体色から「赤とんぼ」の愛称で親しまれたヤマハ初の市販車となった『YA-1』(1955)。そのスリムさと車体色から「赤とんぼ」の愛称で親しまれた

----:色の再現性はいかがですか?

花井:図面にも色は記載されています。とはいえ、正式な呼称や番号ではなく、「ヤマハブルー」みたいな表現に留まっていることも多いため、当時の塗装業者まで確認しに行ったり、色褪せ具合から本来の色味をイメージしたり、あの手この手で再現度を高めています。

----:レストアで一番大変だった車両はなんですか?

花井:個人的には『YM1』ですね。収蔵コレクションにはない車両だったのですが、昔の先輩が持っていた記憶があったので、当時の上長に「自分に担当させてほしい」と申し出ました。ところが車両は想定していたような状態ではなく、ほとんど土の中に埋まっているような個体を3台くらい引きずり出して、どうにか仕上げることができました。すべてに携わった最初の一台でもあり、思い出深いモデルです。

◆生命を吹き込み、時代を超えて同じ課題に向き合う

花井さんがメカニックを担当し、1984年の全日本TT-F3クラスのタイトルを獲得した『FZR400』花井さんがメカニックを担当し、1984年の全日本TT-F3クラスのタイトルを獲得した『FZR400』

----:大変な仕事の半面、メカニックとしては夢のような環境にも見えます。みなさんは、どういう経緯で現職に就かれたのでしょうか。

花井:ヤマハのレースを通じた販促活動やライダーのマネージメントを30年ほど経験した後、今の部署に移りました。メカニックとしては、84年の全日本TT-F3クラスでチャンピオンになった江崎正選手の「FZR400」を担当できたことがよき思い出です。

石井:僕はロードレースの契約メカニックとして、全日本やワールドスーパーバイクのチームに帯同していました。その後、スーパーバイクや8耐マシンの開発部を経て、こちらへ異動という流れです。

井田:自分は元々社外の人間で、ずっと自動車の整備士をやっていたのですが、バイクが好き過ぎて、その思いが爆発したというんでしょうか。花井さんのことを勝手に師匠のように思っていたところ、こういう仕事に従事されていることを知って、自分もそこを目指そうと。なので、入社してまだ1年足らずの新人です。

「時代を超えて同じ課題に向き合えるのが楽しい」と話す井田真稔さん「時代を超えて同じ課題に向き合えるのが楽しい」と話す井田真稔さん

花井:井田君は若いのに昭和気質な人間で、私より昔のことを知っていたりするものですからなにかと助かってます(笑)

----:どんなところにやりがいを感じていますか?

花井:機械とはいえ、生命を吹き込むような仕事ですから、エンジンに火が入った時は、なんとも表現のしようがないくらいの興奮に包まれます。「やった!生き返った」という感じで、お金には換えられない達成感を味わうことができます。

石井:さっき、井田さんが自身のことを社外の人間と言いましたが、僕のような契約メカニックもある意味そうなんです。現場で必要な数字やデータを口頭で聞くことはあっても図面を手にするような機会はなく、担当がファクトリーマシンであってもそう。その点、ここではまず資料やマニュアルがあり、それらと実車を照らし合わせながらじっくりと仕上げられるため、プロセスの違いに新鮮さを感じています。

レーシングマシンを仕上げるのとは異なるプロセスが新鮮と話す石井聡さんレーシングマシンを仕上げるのとは異なるプロセスが新鮮と話す石井聡さん

井田:ここにあるすべての車両に、先輩方の手が入っています。当然、ひと筋縄ではいかない車両も多く、昔の苦労話をたびたび聞いていたのですが、いざ自分でエンジンを開けた時に「あの話はこれのことか」とか「ここを工夫されたんだな」とか、時代や世代を超えて、同じ課題に向き合える瞬間がたまらないですね。それを自分でもクリアできた時はなおさらで、おこがましいようですが、歴史を分かち合えたような感覚に浸れてうれしいです。

花井:どんな考えで、誰に向けてこれを設計したのか。バラしたり、組んだりする中で、それがきちんと伝わってくるのが昔のバイクのよさでしょうね。過去のものだけど、我々からすると新しい。技術も構造もまだまだ過渡期だったからこそ、性能を引き上げるためにこんなことまでしていたのかとか、ここでコストの問題を回避してるんだなとか、そういう意図がつぶさに感じられて、時代そのものがよくわかるんです。それを自分の手で蘇らせて、継承していけるところに、やりがいを感じています。

◆歴史を紡ぐプロフェッショナル

ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両

----:大ベテランの花井さんを筆頭に、数々のレーシングマシン(国内4メーカーのファクトリーマシンの他、ドゥカティも)に精通している石井さん、市販車や歴史に詳しい井田さんという現在の体制は、年齢的にもキャリア的にもバランスが取れている印象ですが、技術や知識の継承に関してはどのようにお考えですか?

花井:レストアが始まった当初は、その車両にいつどんな手が入れられたのかがわかるデータがほとんどありませんでした。担当が変われば、それまでの経緯がリセットされるような状態だったため、現在は可能な限り画像を残し、メンテナンスカルテのようなものを作っています。

井田:自分自身が花井さんと石井さんから色々なことを見聞きしている真っただ中です。それを次の人にうまくつなげられるように、平行してマニュアル作りも必要かな、と思う反面、ほとんどすべてがその場での臨機応変な対応が求められるため、自分のように直接弟子入りできる仕組みがあるといいですね。

----:ヤマハがバイクを作り続ける限り、保存しておくべきマシンも増えていくわけですが、現在そのあたりの管理はどうされているのでしょう?

花井:00年代に入ってからのモデルは、最初からストックするようにしています。オリジナル状態の個体をキープし、まめにメンテナンスしておくことがコスト的にも作業的にも最も効率がいいからです。

ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両

----:古い年代のものは、おおよそ揃っている感じですか?

花井:レストアにはガイドラインがあって、優先順位としては型式が初期のもの。そして、『YA-1』や『DT-1』などのようにエポックなものですね。おかげさまで、こうしたモデルの大半はレストアを終えているので、現在は初期型から2型へ拡大しつつ、一部抜けている初期型への対応を考えているところです。

----:今後、手掛けたいモデルはありますか?

花井:趣味もレストアなので、ここでできない分はプライベートでほとんどやりきっていて、家では今『HX90』が進行中です(笑)。あとは、『RD125』に思い入れがあるので、これを手掛けられるといいですね。

石井:僕はやはりレーシングマシンで、芳賀紀行選手の担当だった頃の『YZF-R7』や『YZF-R1』です。彼のマシンって、多くはイタリアにあって、日本で見てもらえる機会はあまりないんです。なので、こちらで仕上げて走らせられるといいですね。完成させると本人が欲しいって言い出しそうですが(笑)

芳賀紀行選手が走った『YZF-R7』や『YZF-R1』を手がけたいと話した石井聡さん芳賀紀行選手が走った『YZF-R7』や『YZF-R1』を手がけたいと話した石井聡さん

井田:未着手の『GX250』が保管庫にあるので、これのレストアは早々に成し遂げたいと思っています。もっとも、花井さんの年齢的に時間には限りがあるので、ここにいてくださる間に一緒にできることなら、なんでもやりたいですし、一台でも多くのバイクに関わらせてもらえると幸せです。

ヤマハのモデルは、しばしば流麗さや繊細さ、優美さの観点で語られ、優れたデザイン性で高い評価を受ける。その象徴がコミュニケーションプラザを彩る数々のマシンだが、それらは単にドレスアップされたものではない。残響音が聴こえてきそうなチャンバーの造形、肉盛りされた溶接痕から見てとれる執念、美しいコーナリング軌跡を想像させるフレームワーク……。そういったものの集積が躍動感となり、どのマシンも例外なく生々しさを湛えている。そうやって先人が残した叡智の結集が豊岡技術センターに従事するプロフェッショナル達によって受け継がれ、歴史が紡がれていく。

ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両ヤマハ発動機 豊岡技術センターでレストアされる車両
《伊丹孝裕》

モーターサイクルジャーナリスト 伊丹孝裕

モーターサイクルジャーナリスト 1971年京都生まれ。1998年にネコ・パブリッシングへ入社。2005年、同社発刊の2輪専門誌『クラブマン』の編集長に就任し、2007年に退社。以後、フリーランスのライターとして、2輪と4輪媒体を中心に執筆を行っている。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム、鈴鹿8時間耐久ロードレースといった国内外のレースに参戦。サーキット走行会や試乗会ではインストラクターも務めている。

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