お客様に我慢させる軽自動車ではいけない…ホンダ N360 デザイナー[インタビュー]

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ホンダ N360
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昨年ホンダ『N360』は生誕50周年を迎え、年末にはHONDA N360 ENJOY CLUB主催によるホンダウェルカムプラザなどでお祝いのイベントが開催された。そこでは、当時のデザイナーによるトークショーが行われ、デザイン秘話などが語られた。

トークショーに出席したのは当時エクステリアデザインを担当した宮智英之介氏と青戸務氏。宮智氏は1960年に本田技研工業に入社し、5人目のデザイナーとして造形室に配属。『XR100』や『GL500』などの二輪も多く手掛けた。1996年に退職後Pathosデザイン研究所を設立。青戸氏は、1966年に入社後N360,『TN360』などを手掛け、その後ドイツオペルやヒュンダイなどを歴任。現在はアオト・デザイン主宰。司会進行は三樹書房の小林謙一氏が務めた。なお文中で本田宗一郎氏のことを“オヤジさん”と記載したが、これは宮治氏が親しみを込めて呼んでいたことからそのまま表記した。

◇F1と一緒の部屋でデザイン

---:当時、デザインを行っていた場所なのですが、300坪ほどの造形スペースだったと聞いています。実際にこれは広かったのでしょうか。

宮智英之介氏(以下敬称略):この前がものすごく狭かったので、ここへ来てかなり広いなと思っていたんです。そうしたところ、四輪だけではなく二輪や耕運機もあり、ときにはF1も来ました。因みに1967年のイタリアグランプリで優勝した「RA300」はこの造形室で粘土を盛ったのです。そんな状態でしたので部屋の中はとても狭かったですね。

---:この造形スペースの中に区切りを付けてN専用のスペースを作ったのですね。

宮智:はい、ホンダは最後発の自動車メーカーになろうとしたわけですから、秘密保持を厳重にいわれ、狭い造形室の中に更に掘っ立て小屋を作って、いってみれば“Nスタジオ”を作りました。

◇現物主義に従って

---:本田宗一郎氏は当時、1/1という現物主義があったと聞きますがどうだったのでしょう。

宮智:オヤジさんは1/1ではないとわからないといっており、スケールモデルもスケッチもダメ。バイクも耕運機も自動車も皆1/1でした。

それから今と違うのはモデラーという人たちがごくわずかしかいませんでしたので、私が会社に入って四輪の仕事に携わったとき、最初に行ったのは1kgの油粘土をハンマーでひっぱたくことだったのです。1台のクルマに粘土を付けるために必要な粘土を、当時粘土練り機などはありませんでしたから、ハンマーでひっぱたいて柔らかくして、それで木を組んで網を張ったモデルベースに手で粘土を付けていくので、その作業の大変さといったらなかったですね。

◇お客様に我慢させる軽自動車はダメ

---:Nの開発に際して、室内のスペースを大きく取ろうということが大きくあったようですがいかがでしたか。

宮智:これは、Nの実際の開発が開始される前の年の年末に決断が下ったのですが、まずは言い訳のない軽自動車を作ろうというのが最初の考え方でした。オヤジさんは、自動車に限らずバイクも耕運機も、お客様が買って喜ぶ商品でなければいけない。それから作り手も、売る営業の人たちも、売って喜べる商品が我々のハッピーな商品なのだという非常に強い商品理念を持っていました。それがこのクルマの最初の概念、コンセプトなのです。

特にお客様に我慢させる軽自動車では絶対にいけない、それが最初のコンセプトでした。そのためにホンダで最初のインテリアモックアップも作りました。実はここで私が気になったのは高さとともに幅でした。室内が広くなればなるほどデザイン代(しろ)が減ってしまうでしょう。当時の軽自動車の規格幅が1.3メートルしかありませんでしたから。

---:Nは小さなクルマということで開発が始まりましたが、安全も重視されていました。ステアリングにも大きなパッドが付いていたのもその一例ですね。

青戸務氏(以下敬称略):軽自動車だからこそ安全対策が重要というのが社長の意見でした。そこでステアリングにも大きなパッドを取り付けました。当時はエアバッグなどない時代でしたから。

また、ダッシュボードも最初は棚だけでしたが、社長が、こんなのはブレーキを踏んだらものが飛んでくるだろう、だからグローブボックスにはきちんと蓋を付けろといわれました。シートベルトも採用するなど安全に対しては社長の意見が強くありました。

◇フロントグリルの攻防

---:フロントグリルのデザインの攻防は大変な苦労があったそうですね。

宮智:最初、先行案としてグリルの小さいデザインのクレイモデルを作っていたのですが、当時の軽自動車の幅は1.3メートルしかなく、幅が狭いフロントのデザインに、ヘッドライト2つにグリルが1つという合計3つ穴が開いているので、どうしても幅が狭く見えてしょうがないのです。そういうことからオヤジさんに穴を1つでやらせてくれないかと提案しました。我々は先行案を3穴、提案した案を1穴と呼んでいて、3穴対1穴の話についてオヤジさんと我々との間で、ちゃんちゃんばらばらが始まったのです。

最初、オヤジさんは全然相手にしてくれず、2度目にこれを上申したときは、機嫌が悪くて私はちょっと叩かれまして……。ただ、非常にありがたいと思っているのは、当時のホンダには戦時中にあちこちの飛行機会社とかで働いていた技術者がたくさんいましてね。そういう人たちはとても戦争中に苦労して、偉い軍人さん達にいじめられながら仕事をしていた人達だったので、私が叩かれたという話を聞きつけて、1回ぐらい殴られたぐらいで気を落とすな、機嫌のいいときにもう一度やってみろと随分励まされました。当時のホンダの中では何かあると寄ってたかってみんなで励ますという、今でも涙が出るくらいのことがあったのです。

そういったことがあって、最終的には半分だけクレイモデルを作れといわれました。半分作って鏡で見ればわかるだろうと。オヤジさんもあちこちから情報を得ていて、半分作って鏡を真ん中に立てると全幅が見えることを知っていたんですね。半分だけにしろ、もう半分は俺が作ったやつを作っておけとこういったのです。でも結局半分だけでわかりもしないから本当にそれは必死の思いでオヤジさんの方の半分壊して作って、最終的にはOKをもらいました。

オヤジさんは最終的にどう思っていたかはわかりませんが、我々が提案した1穴のデザインを受け入れてくれたのはとてもいい経験になりました。何か提案してダメだといわれても、もう一度やる、もう一度やる……。そうするうちにだんだん話がついて来たのは今ではとても貴重な記憶です。それと、造形室の中でもみんなに励まされましたし、造形室外の酒飲みの無頼漢みたいなのも来て、随分励ましてくれたのが今でもとても印象に残っています。

◇クラムシェルボンネットの採用

---:ボンネットも特徴的ですね。

宮智:先ほどからお話をしている通り、当時軽自動車の幅は1.3メートルに納めなければ軽自動車として認めてもらえません。従って中を広く広くとやるものだから、外側のデザイン代がどんどん減ってきてしまい、平べったいデザインになっていくのがとても心配でした。その対策として穴を1つにするということだったのですが、もうひとつボンネットの形状を考えました。

当時のクルマはボンネット上に2本の分割線がありましたが、これにより幅が狭く見えるという心配がありました。そこで、ボンネットはまるまる一枚のパネルで作り、今でいうクラムシェル型のボンネットを採用しました。そのときに参考にしたのがルノー『8ゴルディーニ』で、同じようなボンネットを使用していたのです。また、スバル『1000』も同じようにしていましたので、そういった車両を大いに参考にしました。

オヤジさんがいっていた、お客様が我慢しないでもすむクルマという開発コンセプトでは、クルマが小さく見えてはダメだ、オヤジさんは真横まで幅いっぱいに見せろということもありました。しかしそうするとバンパーの上の部分の絞り込みが出来なくて、単に四角くなってしまうのです。しかし、デザイナーとしてはこの絞り込みをとてもやりたくて。実際に絞り込んでいくとオヤジさんが来ていやいやダメだもっと幅広く見せろという、毎日それの攻防でした。

青戸:そうそう、社長は直線定規をサイドに当ててここまで広げろとよくいっていました。これを朝来ていって、1日かけて盛って、夕方社長が帰ったあとに残業して削っていったものです。

◇ライトバンに見えないリアデザイン

---:リアデザインも良いデザインだったと思いますが、このようなデザインになった経緯を教えてください。

宮智:当時は2BOXという概念はありませんでした。後ろにトランクの付いているクルマばかりでしたから。ごく最初の頃は、オヤジさんはトランクを付けようと考えていました。しかし三菱などの軽自動車に後ろにトランクが付いているクルマがあり、そのデザインはとてもいただけなくて、そういうものを見せつけながら、2BOXでまとめたいという話を進め、割合初期に2BOX案は決まったのです。

しかし、リアウィンドウのすぐ下で折れという注文が付きました。当時の日本で走っていたライトバンの大半は、リアウィンドウのすぐ下で折っていましたので、ライトバンに見えるのは嫌ですから、もう少し下で折らせてくれという話し合いをしたものです。私は今の位置で折るために、欧州車で参考を見つけようとしたところ、ピニンファリーナデザインのBMC『1100』シリーズ(ADO16)のウィンドウからずっと下がってきたところで折れている写真を見つけたのです。これだったら乗用車に見えるのではないかと思い、それをまたもや参考にしました。

私はちょうど30歳で、会社に入ってから6~7年目だったので実力なんかそんなにありません。そこで必死になって参考書類や、自動車雑誌、赤坂の外車ディーラーへ行って触って感じて、そういうことを一生懸命やって全体をまとめていきました。

◇逆さまのバンパー

---:バンパーに関するエピソードもありますね。

青戸:実はバンパーは上下逆に付いているのです。最初は今の下の部分が上になっていて、そのモデルがデザイン室にあったとき、社長が、お前らわかっていない、メッキというものは光って見えなければいけないのに、これでは全然光って見えないだろう。だから上下を逆にしろといわれました。なのでそれ以降Nのバンパーは逆に付いているのです。

宮智:当時トヨタも日産も全部上が平らで下が地面に向いているというバンパーの断面でした。それは逆だろうとオヤジさんはいうのですね。しかしあとでMiniを見たらMiniもどちらかというとNと同じような感じでした。

---:メッキについてはすごくこだわっていたのですね。

宮智:そうです。オヤジさんにいわれて逆にしたら、なるほど本当によく光って見えるわけです。オヤジさんにはメッキ部品に対する美学があって、これはNに始まったことではありません。ホンダが発展したひとつのモデルとしてホンダ『ドリームC70』があるのですが、このタンクのサイドカバーにちゃんと立派なメッキのカバーが付いています。その後、250の『CB72』というスポーツモデルにも、タンクにはメッキのサイドカバーが付いていました。研究所の中では、メッキのサイドカバーには反対意見が多かったのですが、いざ発売してみると、メッキのCB72がとても評判が良かったのです。これはオヤジさんの独特の美学というか、あまり既存の事例にとらわれないでやるという非常に良い例だと思いますし、バンパーの話もそれに通ずるものがありますね。

◇ほぼ完成後にルーフも削った

---:細部のことはあるにせよ、基本的なデザインは比較的早く決まっていたのですか。

宮智:いえ、全然そんなことはありません。オヤジさんは毎日スタジオに来て、こんなに目が高くてはダメだとか。オヤジさんの提案が基本なので、それに従って粘土を付けていくのですが、粘土を付けていくと、今度は、これはダットサンの面だとかいわれたものです。そして、このクルマは女性がたくさん乗ることを考えなければいけない。お前はこのクルマに乗るお客様の顔を想像しているかと何度もいわれながら、粘土を盛っては削り、そういったことが毎日続いたものです。それは細部だけではなく基本的なスタイルについてもいろいろありました。

---:ルーフを最後まで削ったという話も聞きました。

宮智:もう最終段階でデザインがまとまって、金型の製作が始まった頃です。これは非常に異例で、今では絶対にないことなのですが、クレイモデルを狭山の第三工場という金型工場の定盤の上で計測をするということで持って行きました。そこで1日~2日経った頃にオヤジさんが現れて、ここで見ると屋根が少し厚く見えるよといい、少し削ってみろと二人だけの密約のような感じで私にいわれて。

実はこの話、いろいろな資料で、リアピラーを削ったとなっていますがこれは間違い。ルーフの中央、およそ運転席の上あたりの粘土を削ったのです。計測をし終わって金型にゴーがかかっているときにです。

それで、第三工場の工場長がカンカンに怒って私のところへ来て、更に研究所の所長がすぐに帰って来いといって、そうしたらとても怒られて。結局その工場長が大車輪でルーフパネルの金型を仕上げてくれたのでめでたしめでたしになりました。これは、最後まで掘っ立て小屋で作っていましたので、オヤジさんは遠くからデザインを見るというチャンスがあまりなかったからなのですね。

◇本田宗一郎はホンダで一番親近感を持っている人

---:本田宗一郎に学んだことはありますか。

宮智:これは本当の話なのですが、私は未だにオヤジさんの夢を見るのです。すぐ近くで銀縁のメガネがキラキラ光って、大きな声で何かいわれている夢を見ます。今、ホンダに何人の従業員がいるのか知りませんし、我々の時代に何人いたかも知らないのですが、一番親近感を持っている人といえばそれは本田宗一郎、それは間違いなくそういえます。

いろいろ攻防はありましたが、その中で奮い立たせてくれた、そういう舞台を作ってくれたということは今になって考えてみるととてもありがたかったと思います。そして、いろいろなことに賛同してスタッフ達が我々を盛り上げて、このモデルをなんとか作ってくれました。本田宗一郎なしに私とホンダの話は出来ません。未だにありがとうございますと思っています。

《内田俊一》

内田俊一

内田俊一(うちだしゅんいち) 日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)会員 1966年生まれ。自動車関連のマーケティングリサーチ会社に18年間在籍し、先行開発、ユーザー調査に携わる。その後独立し、これまでの経験を活かしデザイン、マーケティング等の視点を中心に執筆。また、クラシックカーの分野も得意としている。保有車は車検切れのルノー25バカラとルノー10。

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