ルマン24時間、マツダ787Bの総合優勝から30年…日本メーカー初、あらためて振り返る[フォトヒストリー]

1991年のルマン24時間レースを制した#55 マツダ787B。
  • 1991年のルマン24時間レースを制した#55 マツダ787B。
  • 1991年のルマン24時間レースを制した#55 マツダ787B。
  • 1991年のルマン24時間レースを制した#55 マツダ787B。
  • 1991年のルマン24時間レースを制した#55 マツダ787B。
  • 優勝して表彰台の中央に立った#55 マツダのバイドラーとガショー(写真は1991年)。
  • もうひとりの#55 マツダの優勝ドライバー、ハーバートは“20年遅れ”で表彰台へ(写真は2011年)。
  • マツダ三次試験場内の「石碑」。
  • 1991年のルマン総合6位、#18 マツダ787B。

世界3大レースのひとつに数えられるフランスのルマン24時間レース、この伝統の一戦を日本メーカーが初めて制したのは1991年のことで、マツダ787Bによる大願成就だった。30年の歳月が流れた2021年の今、あらためて空前の大偉業を振り返ってみる。

日本メーカー歴代最高と考えられる壮挙

日本の四輪モータースポーツにとって、現段階までにおけるドライバー(選手)が成した最大の偉業は2017年、佐藤琢磨が世界3大レースのひとつであるアメリカの「インディ500」を初制覇したことで“満場一致”だろう(彼は2020年に2度目のインディ500優勝も達成)。では、日本車あるいは日本社、日本の自動車メーカーが成した最大の偉業とは?

こちらは観点によって意見が異なり、満場一致とはいかないかもしれないが、やはり世界3大レースのひとつであるフランスのルマン24時間レースでのマツダによる日本車(社)初の総合優勝(1991年)、これが最大公約数的な答えではなかろうか。

その壮挙から30年。マツダがルマン挑戦等のモータースポーツ史をまとめた記念の資料や写真を公開した。今年のルマン24時間レースはコロナ禍の影響で、例年の6月ではなく8月に延期開催される予定だが(昨年は9月開催だった)、夏至の時節という本来のルマン開催期に近いうちに、あらためてマツダの大偉業を振り返ってみたい。1991年のルマン24時間レース1991年のルマン24時間レース

ラストチャンスだった1991年のルマン

マツダのロータリーエンジン(RE)搭載車は1970年代からルマン24時間レースに姿を現していたが、マツダオート東京~マツダスピードの本格的な挑戦がスタートしたのは1979年とされ、やがて本社開発サイドとの一体化も進んだ真の“ワークス”として力を高めていくのは80年代が進むにつれてのことであった(81年から連続参戦)。参戦するクラスも1986年からは総合優勝を意識するそれへと移る(当時のIMSA-GTPクラス。当時のグループCと近い規定のクラスで、大きな括りとしては“Cカー”と考えていいだろう)。1987年と1989年には総合7位を獲得していた。

1991年は当時のグループC規定が“端境期”にあった年といえよう。当時のF1と同じ3.5リッター自然吸気レシプロエンジン搭載一本化の“新Cカー”への移行が推進されており、REという独自エンジン路線に誇りをもって歩んできたマツダは当初、ルマンに参戦できなくなるはずだったが、1991年はルマンを含む当時の「SWC」(スポーツカー世界選手権)で“旧Cカー”の混走が認められるかたちになり、当時のマツダのルマン挑戦にとってラストチャンスとなった。

新Cカーの「カテゴリー1」と、旧Cカーの「カテゴリー2」の混走。マツダは前年型「787」を進化させた「787B」を2台、そして「787」を1台、計3台を「カテゴリー2」の扱いで1991年のルマンに参戦させる。787~787Bは4ローターの「R26B」エンジンを積む、この時代におけるマツダのルマン挑戦を集大成したマシンともいえた。

24時間という長丁場の舞台には従前の「カテゴリー2」のマシンが適しているというのが一般的な見方で、ワークス勢ではメルセデスとジャガーが「カテゴリー2」のマシン(旧Cカー)をルマンの主軸に据える。プジョーは旧Cカーを所有しておらず、新Cカーでのスピード披露的な早期リタイア前提のルマン参戦になることが規定路線。旧Cカーとしてはメルセデス、ジャガー、マツダの他に、プライベーターが走らせるポルシェ962C系などが相当数あった。

こうした端境期につきものの混乱や紆余曲折によって、トヨタと日産は1991年のルマンに不参戦となり、日本のワークスはマツダだけに。また、新旧Cカー混走の参戦規定がやはり紆余曲折するなかで、マツダはやや有利な車重条件を手に入れることに成功していた、と見るのが一般的である。とはいえ、メルセデス、ジャガーという強大な敵に対し、さして有利に働くとも思えないレベルの差であったことも一方の事実だった。マツダの初優勝で歓喜に包まれた1991年のルマン。日の丸が誇らしげに存在を主張する。マツダの初優勝で歓喜に包まれた1991年のルマン。日の丸が誇らしげに存在を主張する。

ついに成し遂げられたルマン初制覇

1991年のルマン24時間は6月22~23日に決勝レースが実施された。メルセデスが主導権を握ってレースを進めるが、マツダも着実なレースを展開。3台のなかでもエースカーといえた55号車、ジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショー/フォルカー・バイドラーのトリオが走らせる787Bは、スタート5時間後からはトップ5圏内に位置し、安定したレース運びを見せる。レースペース的にもジャガー勢とは互角以上に戦える力があった。

やがて1-2-3を占めていたメルセデスの陣形がダメージやトラブル等で崩れ出す。ただ、首位には1号車のメルセデスC11が君臨し続けていた。マツダの55号車はジャガーXJR-12勢との2番手争いを制しつつはあったが、それでも首位のメルセデス1号車は遠かった。

しかし残り3時間を切ってから波乱が起きる。首位のメルセデス1号車がトラブルで戦線を去ることになったのだ。そしてトップに立ったのはマツダ55号車。規定的好条件の後押しも少しあったラストチャンスでしっかりレースを進めることができていた極東からのチャレンジャーに、最後の土壇場で勝利の女神が微笑んだ。マツダ55号車はジャガー勢を2~3~4位に抑えて総合優勝を飾る(2位には2周差、362周対360周)。

メルセデス勢の最上位(唯一の完走車)は、若き日のミハエル・シューマッハらが駆った31号車の総合5位。マツダ勢は、D. ケネディ/S. ヨハンソン/M. サンドロ・サーラの18号車(787B)が6位、P. デュドネ/寺田陽次郎/従野孝司の56号車(787)が8位と、3台とも完走。出走38台で完走は12台とされたサバイバル戦で素晴らしい耐久性も披露した。1991年のルマン24時間レース1991年のルマン24時間レース

日本初であること以上に価値の高い勝利

日本メーカーのルマン24時間レース総合優勝はこのときのマツダが初。しかも、メルセデスやジャガーという欧州列強と戦って得た勝利だけに価値は格別に高い。ジャガーを上まわり、メルセデスも耐久レースならではの安定感を武器にうっちゃっての勝利だった。

近年のルマンではトヨタが3連覇継続中(2018年~)。ハイブリッドマシンで24時間レースを戦って勝つという高度な技術的挑戦を内包したものであり、これもまた偉業である。ただ、これはトヨタの責任ではないのだが、“同じ土俵”で戦うビッグネーム(メーカー)がいない状況下での3連覇となっていることは事実だ。自陣の2台をかなりのレベルまで競わせているのは尊敬に値するし、そのなかで1-2、1-2、1-3で3連覇してきているのだから、技術的挑戦の意義を含めて賞賛すべき覇道である。しかし、それでもやはりシンプルにスポーツとしての視点から見た場合には、マツダの勝利にさらなる価値を認めたくなるのだ。

近い将来、再び列強相撃つ戦況になりそうなルマンでトヨタが勝ったとき、その勝利は一層の輝きを纏うだろうし、そこでマツダの勝利の尊さもまたクローズアップされるのかもしれない。マツダの歴代ルマン挑戦車たち(イラスト)。マツダの歴代ルマン挑戦車たち(イラスト)。

20年後、2011年の表彰式

さて、1991年のルマン表彰式の写真には、総合優勝ドライバーが2人しか写っていない。実はアンカードライバーだったハーバートは、疲労によって表彰台には登壇できなかったのだ。全身全霊の戦いで大偉業を成したマツダの選手、スタッフの気概と消耗度を象徴するかのような出来事だった。

しかし実はハーバート、20年後の2011年6月にルマンの表彰台に立っている。これは、ハーバートが2011年のルマンで再び優勝した、ということではない。

マツダの優勝から20年の節目に、787Bがルマンを走る機会が設けられ、そこにハーバートがドライバーとして参加、20年遅れで表彰台に上がるという粋な演出があったのだ。こうした“メモリアル凱旋ラン”が演じられた事実からも、マツダの優勝が伝統のルマンにおいてエポックメーキングな事象として記憶されていることが分かる。日本勢初、そしてロータリーエンジンという独自の技術にこだわって、当面のラストチャンスで強力な相手と戦って得た勝利だけに、その価値の高さは欧州にも広く認められたということだろう。

20年遅れの表彰式からも10年が経ち、今年で優勝から30年が過ぎる。

マツダの主要な車両開発拠点である広島県のマツダ三次自動車試験場内には、「飽くなき挑戦」と刻まれた石碑がある。「飽くなき挑戦」の文字は、かつてロータリーエンジン研究部の部長としてヴァンケル式ロータリーエンジンの実用化に心血を注いだ山本健一・元マツダ会長による書をもとにしたものとされる。

その石碑には、「第59回 ル・マン24時間耐久レース総合優勝記念」の文字と、マツダ787Bが優勝を果たした日付である「1991.6.23」も一緒に刻まれている。

《遠藤俊幸》

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