コンチネンタルGT に受継がれたベントレー「スピード」の伝統と魂

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ベントレー コンチネンタルGT スピード
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今でこそ超高級車としてその名を知られるベントレーだが、メーカー誕生当初はインディ500に参戦したり、ルマン24時間に参戦するなど、もっぱらレースで活躍する、今で言うならスポーツカーメーカーだったのである。

因みに初メジャーイベントが1922年のインディ500。この時はロードカーをモディファイしただけのモデルで、13位ながら完走を遂げた。そして1923年、メーカー誕生から僅か4年目にして第1回ルマン24時間レースに参戦。4位で完走すると、その翌年には念願の初優勝を遂げるなど、その活躍は目覚ましい。

ベントレー初の量産車は3リットル直4エンジンを搭載したモデルだった。有名な白洲次郎の愛車もこの3リットル・ベントレーである。そしてルマンで初めて勝ったのも、この『3リットル』であった。しかし、この時すでに創業者W.Oベントレーの頭の中には次なるモデルのアイデアが存在した。

そして1925年『Sun』という名でレジスターされたモデルは、4.5リットルの6気筒エンジンを搭載していた(4.25リットルという説もある)。

面白い話がある。このプロトタイプのテストに、W.Oは海を渡りフランスに向かった。その帰途、出会ってしまったのがその年の5月に出たばかりのロールスロイス『ファントム1』。向こうもテスト中ということで、どちらともなく公道上のレースがスタートしてしまった。レースはロールスのドライバーが帽子を飛ばしてしまったことでけりがついたのだが、W.Oとしてはロールスと同程度の性能であったことが気に入らず、このエンジンを6.5リットルにまで拡大したのである。そしてその高性能版として誕生し、1929年のルマンで見事優勝を遂げるのがベントレー『スピード6』であった。

実は「スピード」の名はこの時誕生したものではなく、3リットルの時代から存在した。ベントレーの3リットルモデルは当時最も成功したバリエーションで、エクスペリメンタルモデルを含む1622台が生産され、このうち513台はSUのツインキャブレターを装備し、高圧縮比のエンジンを積んだスピードだったという。

というわけで「スピード」の名はスポーティーなベントレーの中でもさらに高性能なモデルに与えられた称号というわけである。その名が現代に蘇ったのはやはり現行ラインナップでもっともスポーティーなモデル『コンチネンタルGT』で、2007年のラグナヴィレッジポロで初披露された。当時はノーマルのGTに対し50psアップの610psを絞り出していた。そして最新モデルではさらに635psにまで引き上げられている。

よくベントレーとロールスロイスは比較されがちだ。そもそも、上記したようにW.O自身がロールスロイスに対してはライバル心を燃やしていたし、ロールスロイスもまたベントレーに脅威を感じていた。そして歴史の綾がロールスとベントレーを合体させ、比較的最近まで同じ会社で存続してきたわけである。

しかし、その性格はまるで違う。ベントレーは富豪でも生粋の伊達男たちが乗るクルマ。そして、ロールスはと言えば、上流貴族でも伝統と格式を重んじて振る舞い正しく過ごす人々のクルマと言えばよいだろう。

1920年代から30年代のベントレー・ボーイズたちは、シャンペンとパーティー、絹のスカーフと愛人と言うイメージが常に付きまとっていたと言う。そのベントレー・ボーイズと呼ばれた人々、彼らはその時代にかけてワークスベントレー走らせたドライバーたちだが、単にワークスカーを走らせたからと言って、そのままベントレー・ボーイズとなったわけではない。

ベントレー・ボーイズと呼ばれた男たちは12人いたと言われるが、その頂点に立つ男がウルフ・バーナートである。彼は父親が南アフリカのダイヤモンド鉱山で巨万の富を築き、その遺産を相続したいわば2代目であったが、同時に卓越した運動神経の持ち主でスポーツマンであった。レーシングドライバーとしてのみならず、ゴルフの腕前はシングル。このほかボクシング、クリケット、スピードボートなど何をやらせても超一流の腕前を持つ人物だったのである。

1929年のスピード6によるルマン優勝時も、ドライブしていたのはウルフ・バーナートであった。そんな彼が何をしたかというと、当時財政難に喘いでいたベントレーに私財14万3000ポンドを投じて財政危機を救ったのである。

バーナートはその時「ただ単に道路やサーキットを走らせるいいクルマの供給が途絶えないようにするためだ」と言ったそうだが、ベントレーというメーカーはこうした男たちによって支えられてきたメーカーなのである。そしてそれこそがベントレー・ボーイズのベントレー・ボーイズたる所以でもある。そしてスピードの名はベントレーにとっても重要な役割を演じた名車として語り継がれてきたものなのだ。

《中村 孝仁》

中村 孝仁

中村孝仁(なかむらたかひと)|AJAJ会員 1952年生まれ、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾るクルマ好き。その後スーパーカーショップのバイトに始まり、ノバエンジニアリングの丁稚メカを経験し、さらにドイツでクルマ修行。1977年にジャーナリズム業界に入り、以来45年間、フリージャーナリストとして活動を続けている。また、現在は企業やシニア向け運転講習の会社、ショーファデプト代表取締役も務める。

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