1 | 30分で料理教室 |
パリで自動車と縁が深いエリアといえば、今日なら5ブランドのショールームがあるシャンゼリゼ通りだが、歴史的にみればセーヌ左岸の15区であろう。
第一次大戦開戦の翌年、アンドレ・シトロエンは、現15区でキャベツ畑しかなかったジャベル地区に砲弾工場を建てた。アメリカのデトロイトで見学してきたフォードの流れ作業方式を採り入れたその工場は、当時としては驚異的な日産5万5000発の爆弾を生産することに成功した。
終戦翌年の1919年になると、シトロエンはいち早く自動車工場に転換。今度は欧州で初めて乗用車の大量生産を成し遂げる。
ちなみにジャベル工場は1982年に閉鎖され、現在は再開発されて、その名も「アンドレ・シトロエン公園」になっている。並びには「コレージュ・アンドレ・シトロエン」という中学校もできている。
シトロエンの研究所も、戦後まで15区の旧ホテル・ニッコー(現在はノボテル)裏のほうにあった。『トラクシォン・アバン』、『2CV』、『DS』、『アミ6』を手がけた天才スタイリスト、フラミニオ・ベルトーニが住んでいたのもその15区だ。
その15区の市役所近くで、面白いものを発見した。その名を「ラトリエ・デ・シェフ L'atelier des Chefs」という。近年フランス国内にフランチャイズ展開している料理教室で、パリにはすでに6校ある。15区の教室はそのひとつだ。
いちばんお手軽な「ランカ」(L'en-cas)コースは、なんと30分で習えるという。レッスンフィーも15ユーロ(約1800円)とお手軽だ。その場ではとりあえず申し込みサイトが書かれたカードをもらい、その晩借りアパルトマンのインターネットで、さっそく数日後の12時半開始コースを申し込んでみた。
2 | 実際に体験 |
当日は気合いを入れて15分前に到着。手を洗ってから、プジョーの塩&胡椒挽きも売っている売店スペースで待つ。やがてボクと一緒にレッスンを受ける人たちが次々とやってきた。内訳は女子1名、女子グループ3名、カップル1組で、ぜんぶフランス人だった。
時間が来るとキッチンの入口にアシスタントのお兄さんが立って、使い捨てのビニール製エプロンを要領よく次々とゲストの首に通してくれた。
今日教えてくれるのは、ジャン-ベルナール先生である。その日のメニューは、『鶏胸肉エストラゴン風味とマッシュド・ポテト』だった。
食材はすでに人数分に分かれていて、容器に入っている。用意されたセラミックナイフで鶏肉の筋を取り除き、エストラゴンの葉を皮の下に差し込み、フライパンで焼くのが実際の作業だ。日ごろイタリアで主にオリーブオイルを使っていることもあるが、その惜しみないバターの量は、やはりフランス料理だな、と思った。
付け合わせのマッシュド・ポテトは、皮剥きをして茹で、牛乳とバターを加えてポテトマッシャーで潰し、型に入れて皿の上に出すところをやる。
そのあと、一行は売店脇のテーブルに移り、先生と一緒に食事をする。水は無料だが、ワインと食後のデザート、そしてコーヒーは希望者のみ実費というシステムだ。ちなみにその間にも、教室では次のレッスンの準備が助手のお兄さんたちによって始められている。
前述の女子グループ3人に話を聞くと、近くのオフィスで働いているOLだった。「月1回前後、昼休み時間に来てるの。レシピは増えるし、昼ごはんを兼ねられるし、とても経済的ね」と教えてくれた。
食後は自由解散。各自お会計をレジ済ませる。さっさと帰ってもよし、さきほどのショップを見てもよし、といった具合だ。
3 | 「道場系」時代は終わった |
このラトリエ・デ・シェフ、東京の道場系料理学校の免状をなぜか持っている女房に言わせると、「本気で料理やりたいモンには物足りないだろう」と言う。だが、ボクにとっては、かなり見事な参加型エンターテインメントだった。
30分間という限られた時間にもかかわらず、慌ただしい雰囲気は一切感じさせず、先生も質問に丁寧に答えている。ゆるいムードを保ちながら、要領よくエッセンスを伝授しているのである。
従来の料理学校が自動車雑誌なら、このラトリエ・デ・シェフはインターネット時代の『レスポンス』である。別にヨイショするわけではないが。
料理の先生=執筆陣は、豊富な知識を持ちながらも、速く、正確かつ簡潔に、そして楽しく教える=書くことが要求される。ちなみに、今回教えてくれたジャン-ベルナール先生は、高級ホテル「パークハイアット・パリ・バンドーム」やミシュラン2ツ星レストラン「キャレ・デ・フォイヨン」でのキャリアをもつ人だった。
ふたたび女房によれば、彼女が免状をもらってきた古い料理学校は大幅に規模を縮小せざるを得なくなり、いまや風前の灯という。伝統だけでは生きていけなかったのである。どのジャンルもスタイルは刻々と変わり、送り手も変化していかなければならない。はからずもパリの料理教室でイモをつぶしながら再認識したのであった。
喰いすぎ注意 |