昭和11年、現在の川崎市中原区にある多摩川の河川敷に簡易舗装を施した日本初の常設サーキットが誕生した。その名も「多摩川スピードウエー」(当時)と呼ばれた。
ここで初の自動車レースが行われたのは、完成となった昭和11年6月7日。3万人の観客を集めてブガッティやベントレー、MGなどが覇を競った。その中には当時アート商会浜松支店を切り盛りしていた本田宗一郎の姿もあった。戦前には4回の自動車レースと4回のオートバイレースが開催されたそうだが、戦争によってレースは中断され、戦後も復活することなくやがてコースは消え、土手に作られた観客席だけが遺構として残ったのである。
2021年になって堤防の嵩上げと拡幅が必要となるため取り壊しの通達が出され、僅かな観客席の一部と記念プレートを残してその姿は消えた。しかしこの遺構を残すべく奔走した「多摩川スピードウェイの会」の藤本隆宏氏が、切り出した遺構の一部を東京都港区赤坂8-5-41、イースタン青山ビルの敷地内に移設。常設展示されることになったのである。

2023年4月22日、そのお披露目と除幕式が開催された。余談ながら4月22日は本当の意味での自動車レースが日本で開催されてから100年目。つまり100年前の4月22日にいわゆる競争という形の自動車レースが行われた記念すべき日でもあった。
また、遺構が展示される青山のイースタンビルは多摩川スピードウェイでドライバーとしての活躍した藤本軍治(日本自動車競争倶楽部の創設者で、タクシー・ハイヤー事業のイースタンモータース創業者でもある)所縁の地であり、除幕をしたのが藤本軍治の孫にあたる藤本隆宏氏である。
遺構自体は非常に小さなもので、ただのコンクリートの塊にしかうつらないが、軍が要塞などの作る際に使う鉄筋を使わない純コンクリート製で良質な角の取れた丸い川砂利と川砂が使われ、85年の歳月を経て表面こそ風化が進んでいるが、切断面は非常に奇麗であり、専門家が見るとその作りの良さに驚嘆するものだそうである。