マイバッハの歴史を紐解くと…

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MMエンブレム
  • MMエンブレム
  • 35hpレーサー
  • W3。工場の前で出荷を待つ。このあとコーチビルダーで車体が架装される(1921年)
  • ウィルヘルム
  • W3。右から2番目がカール(工場前で、1924/25年ごろ)
  • LZ126、後のロサンゼルス。写真右下は工場(1924年)
  • 工場上空を飛ぶグラーフ・ツェッペリン号(1935年)
  • 工場(1917年)

メルセデス・ベンツ日本は22日、東京コンクール・デレガンスの会場において『マイバッハ』のフェイスリフトと追加モデル『マイバッハ・ランドレー』を発表した。

「“エクセレンス・イン・ラグジュアリー”はマイバッハそのもの」と話すのはマイバッハ グローバルマネージャーのパトリック・マリノフ氏。その意味は、「最高のものの中から唯一無二の最高のものを作り出す、これこそがブランドの創設者、ウィルヘルム・マイバッハの心情であるからです」と話す。

「100年前に彼はこの心情を打ち出した。これだけの偉大な考え方があったからこそ、マイバッハは最高のものというだけでなく、ブランド名を超えたものになったのです」

マイバッハの歴史について、マリノフ氏は「ウィルヘルム・マイバッハはシュツットガルト近郊の孤児院で暮らしていた時、ゴットリーブ・ダイムラーに見出されました。ゴットリーブが自分の会社に連れて行きウィルヘルムのメンター(指導者、保護者)となり、やがてウィルヘルムをチーフエンジニアに据えたのが始まり」という。

その後、「ウィルヘルムはメルセデス『35 hp』レーシングカーを1901年に開発しました。これは現在の自動車の模範にもなっており、ウィルヘルム・マイバッハは自動車の天才だっただけでなく、エンジニアの王と呼ばれている所以です」という。

「ゴットリーブ・ダイムラーが亡くなった後、ウィルヘルム・マイバッハは1909年に自分の会社を設立。社名をマイバッハ・モトーレンバウといい、エンブレムのMMはそこから来ています。最初マイバッハ・モトーレンバウはツェッペリンの飛行船用のエンジンを提供していました。そしてウィルヘルムのあと、息子のカールが会社を継承。1921年に、MMのエンブレムの入った自動車を最初に製造し、マーケットに出しました」。

「1930年代、40年代と20年間に1800回におよぶ技術改良が行われ、最高水準の自動車が作られるようになったのです。最高級のものを求めるユーザーに自動車を提供していったのです。マイバッハというのは、エクセレンス・イン・ラクジュアリー、つまりは他にない大出力、極めて高い快適性、卓越した品質を当時から、そして現在も提供しているのです」

《内田俊一》

内田俊一

内田俊一(うちだしゅんいち) 日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)会員 1966年生まれ。自動車関連のマーケティングリサーチ会社に18年間在籍し、先行開発、ユーザー調査に携わる。その後独立し、これまでの経験を活かしデザイン、マーケティング等の視点を中心に執筆。また、クラシックカーの分野も得意としている。保有車は車検切れのルノー25バカラとルノー10。

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