【池原照雄の単眼複眼】幅広キャリアで難局に挑む…次期ホンダ社長の八郷氏

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ホンダ伊東孝紳社長(左)と八郷隆弘新社長(右、現・常務執行役員)
  • ホンダ伊東孝紳社長(左)と八郷隆弘新社長(右、現・常務執行役員)
  • ホンダ八郷隆弘新社長(左)と伊東孝紳社長(右)
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長くもなく、短くもない任期中に疾走

ホンダが6月の株主総会後に6年ぶりのトップ交代を行う。伊東孝紳社長(61)から、中国の生産統括責任者などを務める八郷隆弘常務執行役員(55)にバトンが渡される。次期社長は、伊東氏と同じ四輪車の車体開発に従事した技術者だが、開発部門だけでなく内外の工場や購買といった多彩なキャリアを積んできた。自身も「幅広い経験が私の強み」とし、そこを生かしながらエアバッグのリコール対応や業績の立て直しなど多くの課題に、挑む構えだ。

足元の種々の問題などから、伊東氏はもうしばらく続投だろうと踏んでいたが、見誤った。社長交代というのは、決まった後で振り返ると納得することも多い。今回のケースはホンダの社長任期の目安に沿ったものであり、伊東氏が就任時から自らの任期を定め、後継者の育成にも着々と布石を打ってきたことがうかがえる。

同社の社長任期は伊東氏の前任の福井威夫氏が6年、前々任の吉野浩行氏が5年。創業当初は別として3代目社長の久米是志氏から福井氏まで4人の平均在任は6年余りだった。長くもなく短くもないこの間に全力で疾走し、後進を育み、若返りへのたすきをつなぐというのがホンダの社長業の伝統的な一面である。

◆研究所社長より優先すべき職務を託す

伊東氏は社長に就く前、福井氏の後継育成策に沿って鈴鹿製作所長に就き、未経験だった生産現場のマネジメントに汗を流した。八郷氏も2011年からは鈴鹿製作所長を務めたほか、中国などで幅広い職務を託された。海外赴任も、米国、欧州、中国と、米国だけだった伊東氏より格段に多い。一方で歴代トップが経験し、「社長への登竜門」とも言われてきた開発部門子会社、本田技術研究所の社長には就いていない。

1960年にホンダ本体から分離された本田技術研究所は、初代社長を創業者で当時もホンダ社長だった本田宗一郎氏が兼務した。以来、ホンダの社長には必ずこのポストを経験した人が就いてきた。だが、八郷氏は研究所のマネジメントに参画したものの、常務執行役員止まり。伊東氏は、「登竜門」にまつわるこれまでの伝統をスパっと切った。

「2008年の世界同時不況後に自動車ビジネスの環境は、先進国主導から新興諸国を含むグローバルな広がりへと劇的に変わった」という認識により、伊東氏は世界6極(北米、南米、欧州、アジア・大洋州、 中国、日本)で、それぞれを自立させようと旗を振ってきた。そうした時代を担う次の社長は、研究所のトップマネジメントより、はるかに優先して経験すべき多くの職務がある――というのが伊東氏の判断だった。

◆「伊東ホンダ」6年の評価はこれから

足元の業績がいまひとつなうえ、エアバッグのリコール対応など引き継ぐ課題も多いため、伊東氏の6年間はネガティブに捉えられがちだ。2011年の東日本大震災とタイの大洪水、12年末までの超円高といった艱難辛苦は、同時代の経営者に共通するものだが、タイでは工場が完全に水没して新設を余儀なくされるといったホンダ固有の不運も重なった。

そうしたなかでも11年末からの新製品群で復活した軽自動車をテコに、国内シェアは2位の地位を固めた。メキシコやインドなど海外新工場の展開も加速した。また、歴代社長が育んできた航空機事業も、伊東氏が退任する6月までには「ホンダジェット」の顧客納入が始まる。

「チャレンジというホンダの企業アイデンティティを象徴するレース」(伊東氏)として復帰を決めたF1は、間もなく第4期の戦いに突入する。2010年に商品化にゴーサインを出し、4月に売り出す軽オープンスポーツの『S660』は、久々に「ホンダらしさ」が詰まったクルマと評価されよう。経営トップの成績は、指名した後継者の力量がどうであったか、後年にも採点が続く。「伊東ホンダ」6年の評価が定まるのはこれからだ。

《池原照雄》

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