大会直前にしてロナウド選手の朝帰りがばれるなど、すっかりリラックス・ムードが漂っているブラジル代表チームであるが、実は毎大会冷や汗をかいている。百戦錬磨のはずのスター軍団に必ず「歌を忘れたカナリア」が出るのだ。
1994年大会は24年ぶりの優勝を勝ち取ったものの、キャプテンのライー選手(1992年のトヨタカップおよび南米最優秀選手)が大ブレークならぬ大ブレーキ。決勝トーナメントでスタメンをはずされたばかりでなく、イタリアとの決勝戦ではとうとう出番すら与えられず、優勝トロフィを受け取る栄誉はその試合でキャプテン・マークをつけていたドゥンガ選手に与えられている。
1998年大会ではリバウド選手が期待を裏切り、前大会のライー選手に続いて「背番号10番のプレッシャーに潰れた」と言われた。また、この大会の決勝戦直前にはロナウド選手(前年度のFIFAおよび欧州最優秀選手)が急性の病に倒れ、浮き足立ったセレソンはいいところなく敗れている。エース・ストライカーとはいえ、体調が万全ではない彼を出場させたザガロ監督は、その「勇気のなさ」を責められることになる。
2002年大会は、結果だけを見れば7戦全勝の「ぶっちぎり」であるが、周知のとおり南米予選では前代未聞の5敗を喫し、監督が3回も交代している。本大会に入ってからも、負傷上がりのロナウド選手は90分間を満足にプレーできず、1次リーグ戦最初の2試合の対トルコ戦と対中国戦とでは途中交代を余儀なくされている。
この大会におけるブラジルは、くじ運に恵まれたとしか言いようがない。最初の3試合でロナウド選手を温存し、チームの立て直しをしながら決勝トーナメントへの進出を果たしたのである。
ブラジルの不運や期待はずれの選手の登場を願うわけではないが、日本代表チームには、「11人対11人の人間同士」で試合をするということを忘れずにがんばってほしい。
ジーコ監督は、「選手の名前が試合に勝つわけではない」と言い続けている。1982年大会で、当時最高傑作と言われた「黄金のカルテット」を擁するブラジルはけっきょく優勝することはできなかった。ホイッスルが鳴るまで何が起きるかわからない勝負の恐ろしさは、「カルテット」の中心選手としてその大会に出場していたジーコ監督自身がもっともよく知っている。
筆者紹介:高木耕(たかぎ・こう)---神田外語大学国際言語文化学科講師。専門はラテンアメリカ地域研究。筑波大学大学院地域研究研究科修了。ジーコ監督が現役だった1980年代の前半をブラジルのリオデジャネイロで過ごす。外務省専門調査員(在コロンビア日本国大使館勤務)、国際協力機構(JICA)長期派遣専門家(ブラジル勤務)を経て現職。通訳や雑誌用の翻訳、テレビ番組制作のためのテープ起こしなどでサッカー関連の仕事経験が多数ある。 |