タイ総選挙は延期可、与党解党要求も タクシン派の宿敵、憲法裁動く

【タイ】タイ選挙委員会が議会下院総選挙の投票日の延期が可能かどうか、可能な場合、延期する権限を持つのは政府か選挙委員会かに関する判断を求めた裁判で、憲法裁判所は24日、延期は可能で、新たな投票日は首相と選挙委員長が相談して決めるとする判断を下した。

エマージング・マーケット 東南アジア

【タイ】タイ選挙委員会が議会下院総選挙の投票日の延期が可能かどうか、可能な場合、延期する権限を持つのは政府か選挙委員会かに関する判断を求めた裁判で、憲法裁判所は24日、延期は可能で、新たな投票日は首相と選挙委員長が相談して決めるとする判断を下した。

 憲法裁の判断を受け、タクシン元首相派インラク政権は2月2日に予定されている下院総選挙の延期を迫られる見通しだ。インラク政権・与党プアタイ党は下院選に勝利して正統性を内外に示し、政治混乱を収束させる方針だったが、反タクシン派寄りの選挙委は投票延期を求めインラク政権に圧力をかけ続けていた。憲法裁はタクシン派と反タクシン派の抗争が本格化した2006年以降、一貫してタクシン派に不利な判決を下しており、今回も予想通りの判決を下した。

 一方、反タクシン派の上院議員と野党民主党の前下院議員は24日、インラク政権による22日発令の非常事態宣言は憲法違反だとして、プアタイ党の解党を求める訴えを憲法裁に起こした。非常事態宣言は下院選でプアタイを有利にするためのものだとしている。

 タイでは昨年10月から、民主党が主導する反タクシン派デモ隊が、タクシン元首相による利権構造の排除、インラク政権の退陣などを求め、バンコクで座り込みの反政府集会を開始した。12月8日には民主党所属の下院議員全員が議員辞職し、翌9日、バンコクで20万人規模の反政府デモが行われ、インラク首相を下院解散、総選挙に追い込んだ。

 しかし、デモ隊を指揮するステープ元副首相(元民主党幹事長)はインラク政権を打倒した上で、様々な職種の代表からなる「人民議会」に国権を委ねるという事実上のクーデター計画を打ち出し、下院選を拒否。下院選で連敗が続く民主党も12月21日、選挙ボイコットを表明した。翌22日には再度、バンコクで十数万人規模の反政府デモが行われた。

 反タクシン派は12月23日から始まった下院選の立候補受付を、受付会場の包囲などで妨害した。12月26日にはバンコクの受付会場にデモ隊が突入を図り、警官隊との間で激しい衝突が起きた。この衝突で、警官2人、デモ参加者1人が死亡、日本人記者を含む100人以上が負傷した。民主党の地盤である南部の8県、28の選挙区では、反タクシン派の妨害により、立候補予定者が届け出を行えなかった。投票日も反タクシン派による妨害が予想され、当選者の数が下院開会に必要な定足数に足りず、規定により、180日以内に再度選挙が行われるという事態も想定される。

 ステープ元副首相らは今月13日から、バンコクの主要交差点をデモ隊で占拠し、省庁、税務署など多くの政府機関を閉鎖に追い込んだ。一方、デモ会場に手りゅう弾が投げ込まれ死傷者が出るなど混乱が広がり、軍事クーデターのうわさも飛び交っている。インラク政権は22日にバンコクと近隣地区に非常事態宣言を発令したが、デモ隊はこれを無視し、道路占拠やデモ行進を続けている。

〈タイ政争の経緯〉
 警察官僚から実業界に転身したタクシン・チナワット氏は1980年代から90年代にかけ、携帯電話、通信衛星などの企業グループを創業し、タイ有数の富豪となった。1990年代に政界に転じ、2001年、自ら創設した新党が既存政党に圧勝し、首相に就任。理解しやすいバラマキ型政策を全面に押し出した選挙戦略と資金力が劇的な勝利の理由と考えられる。
 1回の診療費が一律30バーツの医療制度など、第1期タクシン政権が打ち出した政策は、それまで公共サービスから取り残されていた地方住民、中低所得者層に、投票で自分たちの生活が変わるという実感を持たせた。こうした人々は声を上げる有権者となり、、タクシン氏を支える最大の支持基盤となった。
 タクシン氏は内政、外交ともに華々しく1期目を終え、任期満了にともなう2005年の総選挙では下院議席の75%を獲得し圧勝した。しかし、タクシン氏の権力の増大を苦々しくみていた特権階級はこの年から政権転覆に向け動き出す。バンコクで反政府デモが始まり、タクシン氏が王政廃止を画策しているといったうわさが流れる。プミポン国王を敬愛する多数の国民は徐々にタクシン氏への疑念を強め、反政府デモは拡大していった。タクシン氏は2006年、解散総選挙に踏み切ったものの、野党民主党がボイコットし、憲法裁判所が無効選挙と判定。同年9月、タクシン氏の外遊中に軍事クーデターが起こり、タクシン政権は崩壊した。
 その後発足した軍事政権は憲法を改正し、議会上院の約半分を任命制とし、上院と憲法裁判所、最高裁判所、選挙委員会などが互選で選ばれる仕組みを作った。
 2007年末の民政移管選挙ではタクシン派が勝利し、政権に復帰した。しかし、2008年、タクシン派の首相がテレビ番組に出演して出演料をもらったとして、憲法裁の判決で失職。反タクシン派デモ隊が首相府やバンコクの2空港を占拠するなど混乱が広がった末、同年末、憲法裁がタクシン派与党を選挙違反で解党し、タクシン派政権は崩壊した。
 その後、タクシン派政権に参加していた中小政党と解党されたタクシン派与党の複数の派閥が軍基地内で民主党のアピシット党首、ステープ幹事長らと密談し、民主党連立政権の発足で合意した。
 タクシン派市民は2009年、2010年と反アピシット政権のデモを行い、2010年にはバンコク都心を占拠したタクシン派市民を軍が鎮圧し、約90人が死亡、2000人がけがをした。
 タクシン派は2011年の総選挙で再び勝利し、タクシン氏の妹のインラク氏が首相に就任した。
 反タクシン派にとって、タクシン派の政権は反王室の汚職政治家であるタクシン氏が「教育水準の低い東北人」を選挙で買収して発足した政権で、王室を守り、国を正しい方向に向かわせるためには、タクシン元首相と妹のインラク首相らの追放が必要となる。しかし、数で劣る反タクシン派は選挙でタクシン派に勝てないため、軍事クーデターや裁判所の介入といった非常手段に頼る傾向が強く、タクシン派に比べ「教養」があると自負する反タクシン派が民主主義や法治を否定する主張を繰り返すという矛盾に陥っている。
 一方、タクシン派にとって、タクシン氏は、これまで顧みられなかった地方住民、低所得者層に低額医療を行き渡らせ、農村・地方開発を進めた「民主主義のリーダー」。インラク政権は選挙で選ばれた正統な政権で、反タクシン派は軍事クーデターや裁判でタクシン派政権の転覆を繰り返す非民主的な勢力ということになる。
 両派の抗争は、経済格差、地域格差、教育問題、王室に対する親密度の違い、さらにはタクシン派の支持基盤である東北人への民族差別的な要素も含み、感情的なレベルの対立が深まっている。

《newsclip》

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