top interview by Teruo Ikehara
32年間、外からつながっていた
――商社出身者が自動車メーカーのトップとなるのは異例で、私自身「果たして」という思いでした。三菱商事時代の32年間、すべて自動車部門だったという経験は重いですね。

益子 32年間のうち、自動車事業本部長の時を除いて三菱自動車関連でしたので、人のつながりもあるし、外から見ると問題点も分かります。また(合弁先だった)韓国・現代自動車とはほぼゼロの状態から17年間、仕事させてもらった。なぜ成長できたか、なぜ三菱グループ離れしたかも見てきました。

印象的なのは、常に大きな投資をして新しい市場に挑戦するということでしょうか。輸出を本格開始したころ、中近東に出荷したが高温のため、内装が全部剥がれるということもありました。しかし、そうしたアクシデントへの対処が、日本人ではできないくらい、恐ろしく速かった。日本のメーカーだと、そうした品質段階だと輸出しないのでしょうが、まず挑戦ありきという姿勢には学ぶところがあります。
益子修
益子修(ますこ・おさむ)
1972年早大政経学部卒、同年三菱商事入社。自動車車輌部に配属され75年ソウル支店着任。自動車部門の輸出チームなどを経て90年自動車第1部韓国チームリーダー、97年三菱車を生産するインドネシアKTB社のチーフアドバイザーなどを歴任。2003年執行役員自動車事業本部長。04年6月再建のため三菱自動車工業常務に就任し海外事業統括、05年1月から社長。土日の大半は私服で三菱ディーラーに隠密行動し、接客の改善点などを指摘する。三菱自に着任してからは銀座とゴルフは封印。わずかなオフタイムには日帰り温泉で英気を養う。健康維持のため再生計画初年度の成果次第で4月からはゴルフ再開も。東京都出身、57歳。
池原照雄
池原照雄(いけはら・てるお)
1977年北九州市立大卒、日刊自動車新聞、産経新聞などで自動車、エネルギー、金融、官庁などを担当。00年からフリー。著書に『トヨタVS.ホンダ』(日刊工業新聞社)。山口県出身。














インタビュアー:池原照雄(経済ジャーナリスト)
写真:竹内征二
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