「何も変えないことがもっとも悪いことだ」。社長時代の奥田氏はこう語り、"第二の創業期"を旗印に、"大企業病"にかかっていたトヨタの大改革に取り組んだ。ダイハツ工業や日野自動車を子会社にするなど、"資本の論理による"持株会社制も視野に入れたトヨタグループの結束を強化し、効率化を図った。GM(ゼネラル・モーターズ)や、フォード・モーターなど、世界の強豪自動車メーカーとの競争に勝ち抜くための体制固めが狙いだった。
"石橋を叩いても渡らない"トヨタの社風の改革も断行した。1997年、奥田氏は開発陣の尻を叩き、ハイブリッドカー『プリウス』を一年前倒しで、世界で初めて市販化した。プリウスの投入は開発陣を攻めの姿勢に変えさせた。国内市場でトヨタが40%のシェアを下回っていた最大の原因は若者向けのクルマが不振だったことでもある。"攻めの開発"により、魅力ある若者向けのクルマが相次いで市場に投入され、トヨタは国内市場で常に40%以上のシェアを獲得するようになった。
トヨタは2002年3月期の連結決算で、1兆円を超える経常利益、営業利益をあげた。奥田による改革が、この好業績につながったともいえる。
トヨタ改革の実績が評価され、奥田は小泉改革を支える経済財政諮問会議の民間議員に任命され、日本経団連の会長にも就任した。財界トップの座に就いた奥田に期待されるのは改革である。