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―― 「豊田・プラット協定」の締結交渉を終え、イギリスから帰国した喜一郎は一気に自動車事業に突き進みますね。
和田 1929年(昭和4年)4月に帰国し、翌1930年5月頃には、豊田自動織機製作所内に自動車の研究室を開設し、その年の10月には、自転車に付ける小型エンジンのスミス・モーターを参考に、小型エンジンを完成させます。1933年(昭和8年)には、豊田自動織機製作所に自動車部を設置するわけです。当時の喜一郎は研究者というより、研究チームの長としての面が強い。いわばエジソンと同じです。研究所長として、開発チームに「あれやれ、これやれ」と命じていた。それをやっているうちにマネジメントというものを学んでいったのでしょう。
―― 1935年(昭和10年)に、愛知県挙母町(現在の豊田市)に約58万坪の工場用地を取得し、1937年(昭和12年)8月にトヨタ自動車工業を創業するわけですが、和田先生は『豊田喜一郎伝』の中で、創業の年の6月に京豊自動車工業が設立され、喜一郎が取締役に就任したことに注目されていますね。
和田 このことについては章一郎さんも驚かれていた。私は「やった」と思いましたよ。喜一郎はシボレーのような大きめの大衆車に夢を賭けていた。が、当時の日本では小型自動車が主流でした。大衆車の製造はリスクが大きかったわけです。もし失敗したら、喜一郎は家業を潰すかもしれなかった。ところが、喜一郎は家業を潰さないようにセーフティ・ネットを用意していたのです。それが京豊自動車工業なのです。この会社は、当時の日本の代表的な小型4輪トラック『京三号』を作っていた京三製作所の流れを汲む会社で、京豊自工設立とともに『キョウサン号』に車名が改められました。喜一郎はただ大衆車の夢を追いかけていたのではなく、小型自動車への足掛かりもしっかりとしていたのです。この事実は、喜一郎が極めて現実的な経営者であったことを物語っています。
―― 喜一郎はトヨタ自工創業直後から、トヨタ生産方式を支える考え方のひとつである「ジャスト・イン・タイム(必要な部品を、必要なときに、必要なだけ生産ラインの脇に到着させている状態をいう)」を打ち出していますね。トヨタ生産方式を武器に、圧倒的なコスト競争で高収益を稼ぎ出す。今のトヨタの原型が当時のトヨタ自工だったと考えていいですか? その原型=DNAがいまのトヨタに引き継がれている…。
和田 原型だったと思う。喜一郎が原型を作ったことは高く評価できますが、原型は原型であって、そこから発展しなくてはダメなのです。原型をどう発展させるか、どう時代にマッチさせるか、ということが大切であって、原型を引き継いだ後の経営陣や従業員の努力があってこそ発展するわけです。だから、DNAという言葉は、私は好きではない。DNAというのは先天的なもので、発展させるための努力の部分が見えてこないから。
―― トヨタは“第二の創業”を旗印に経営改革に取り組んでいますが、創業者の喜一郎から学ぶべき点は何ですか。
和田 私は「第三の創業」だと言っている。第一が自動織機を作ったとき、第二が自動車製造を始めたとき。だったら今は「第三の創業」でしょう。それはともかく、学ぶというよりヒントはあるでしょうね。経営者にとって、どの事業に出るのかを選ぶのは非常に重要な経営判断です。しかも、どのタイミングでやるかも重要な判断です。30年、40年先をにらんで成長産業を見極め、経営資源をフルに投じて、それでもダメだったら合併なども視野に入れる。次の分野に進むには資金力と技術力が必要になりますが、その点、トヨタは優位です。喜一郎の創業者精神から得られるヒントがあるとすれば、経営者としての決断の重要性でしょうね。
―― トヨタは大きく発展したわけですが、それによって、喜一郎時代にはあったものが失われてしまったというのはありますか。
和田 トヨタはいまや国内だけで7万人の従業員を抱える企業です。喜一郎時代の数千人規模の企業とは経営の仕方が違う。喜一郎時代には、ホワイトカラー全員に目が行き届いていたと思うけど、いまは無理。奥田(碩トヨタ会長)さんが言うように、官僚的になってしまう。それでもサムライはいると思う。だけど、放っておくと、サムライは消え、文書でやり取りしていた方が楽だと思う人は出てくる。それをトヨタとしてどうするのかが興味深いですね。システマティックになればなるほど、文書でのやり取り中心になるわけです。それを何とかしなければいけないと思いますね。
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1949年生まれ。73年一橋大学商学部卒業、89年ロンドン大学でPh.D.(経済史学博士号)を取得。南山大学を経て現在は東京大学大学院経済学研究科教授。もともとイギリス史が専門で、日英の電力産業発達や生産システム発展の国際比較を研究テーマにしていた。その中から特に日本の自動車産業における生産システムの発達について考慮するようになった。国際比較経営史も研究テーマ。南山大学在職時代に機械部品メーカーと接触する機会を持ち、さらにトヨタとのつながりができ今回の仕事にいたっている。主な著作に『アメリカン・システムから大量生産へ』(共著)、『豊田喜一郎文書集成』(編)、『見えざる手の反逆』(共著)。
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経済誌編集長を経てフリー経済ジャーナリストへ。「週刊文春」「週刊現代」「週刊朝日」「プレジデント」などの雑誌や、「ニュースジャパン」(フジTV)で活躍。著書に「トヨタ創意くふう提案活動」「自動車大ビッグバン」「どうなる自動車産業」「「自動車産業」激変の構図」などがある。近著は「ゴ−ン革命が日産を滅ぼす」が店頭に並んでいる。
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■トヨタ自動車工業社長に就任 |
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トヨタ自動車の生みの親である豊田喜一郎が、トヨタ自動車工業の初代社長のようなイメージで捉えられている。しかし、トヨタ自動車工業の初代社長は義兄の豊田利三郎である。利三郎が会長に退き、喜一郎が社長に就任したのは、昭和16年(1941)1月であった。だが、社長に就任したこの年の12月、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争へと突入する。喜一郎が夢見ていた乗用車の生産ではなく、トラックなど軍需関連の生産が中心となっていた。
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■トヨタSA型セダン |
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昭和20年(1945)8月、日本の敗戦によって戦争は終結した。喜一郎はやがて大衆乗用車の時代が訪れることを確信し、すぐに量産小型乗用車の研究を開始させる。昭和22年(1947)、トヨタ独自の設計による最初のエンジン「S型エンジン」が完成する。このエンジンは小型、計量、低燃費を実現させることによって、戦後日本の経済事情や将来の海外輸出市場に対応できるように作られた。イギリスのベビー・フォード、ドイツのアドラーなどのエンジンを参考にした4気筒、1000ccサイドバルブ方式であるが、設計そのものはトヨタ独自のものであった。S型エンジンの完成と同時に、同エンジンを搭載したトヨタSA型セダンの試作車も完成した。一般公募により、愛称は「トヨペット」と決まった。だが、連合軍総指令部(GHQ)は、自動車の生産を厳しく制限していた。GHQによって許可されていたのは、戦後復興用のトラック生産を月間1500台だけであった。しかしトヨタSA型セダンの試作車が完成した昭和22年(1947)7月に、海外貿易使節団を迎えるため使用できる乗用車の生産が可能かどうかの打診がGHQからあった。トヨタ自動車工業は残っている資材を集めれば、SA型セダン4台とAA型の改良型であるAC型50台なら可能と回答した。その結果、GHQは1500cc以下の小型乗用車の年間300台の製造許可を与えた。ここに、喜一郎の長年の夢であった大衆乗用車生産への突破口が開かれた。
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■晩年の豊田喜一郎 |
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昭和25年(1950)、戦後の急激なインフレと各地で頻発した労働争議の波は、ついにトヨタ自動車にも押し寄せた。経営の難局を乗り切るため、豊田喜一郎に代わり、石田退三が社長に就任した。ところが、喜一郎が退陣したわずか20日後、朝鮮戦争が勃発し、日本経済は急速に息を吹き返し、成長へと向かった。昭和27年(1952)2月、経営の立て直しに成功した石田退三は、喜一郎に社長としてトヨタ自動車に復帰するよう要請し、その年の7月に喜一郎は再びトヨタ自動車の社長に復帰することが決まった。だが、それはかなわず、3月27日、喜一郎は脳出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年57歳であった。
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