【豊田喜一郎特集】いま明らかになるトヨタ自動車誕生の真実
 日本に自動車産業を根づかせる―――。
 基幹産業に成長し、世界規模で事業を展開する今日のような日本の自動車産業の発展ぶりなど想像すらできなかった1937年(昭和12年)。上記の信念を貫き、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)を創業した豊田喜一郎は、1952年(昭和27年)3月27日、わが国初の本格的な国産乗用車『トヨペット・クラウン』の完成を見ることなく、57歳でこの世を去った(完成したのは3年後の1955年=昭和30年)。
 本日2002年3月27日は、喜一郎の没後50周年にあたる。“第二の創業”を旗印に経営改革の真っ只中にあるトヨタでは、喜一郎の没後50年を迎えるにあたり、「豊田喜一郎元(トヨタ自工)社長の生涯を振り返ってみますと、多くの貴重な教訓がよみがえってまいります。新しい事業の創出に向かって、喜一郎元社長とともに挑戦した人たちの、夢を求めた情熱や気概に接しますと、現在、変革に挑んでいる私たちに力強い勇気を与えていただいているように感じてなりません」(奥田碩トヨタ会長)
「当社の創業期には、欧米の自動車産業という明確な目標がありました。しかし、いまの私たちは、何を目標にすべきかから始める必要があります。すなわち、未知への挑戦です。すべてを私たち自身が、新たに創り出していかねばなりません。私たちが、悩みに悩んで考え尽くしていれば、先人たちは必ず解決への示唆を与えてくれるでしょう」(張富士夫トヨタ社長)
 ―――と、喜一郎の創業者精神に学ぶべく、さまざまなイベントを行ってきた。
 中でも、もっとも注目されたのが『豊田喜一郎伝』(トヨタ自動車刊:非売品)の刊行だった。(同書はその後、名古屋大学出版会から定価2800円で発売された。)『豊田喜一郎伝』は第一章「父・佐吉と喜一郎」、第二章「学生時代と人間形成」、第三章「初の欧米旅行」、第四章「自動織機の研究と誕生」、第五章「機械製造の世界へ」、第六章「特許権譲渡交渉の外遊」、第七章「自動車工業への参入」、第八章「自動車工業確立へ向けた努力」―――から成る。

 『豊田喜一郎伝』は、和田一夫・東京大学大学院経済学研究科教授、由井常彦・文京女子大学教授(明治大学名誉教授)の共著。両著者は、広範囲にわたる資料収集や、喜一郎の長男である豊田章一郎トヨタ名誉会長をはじめ、数多くの関係者への取材を行っている。この『豊田喜一郎伝』は、資料的価値が極めて高い。同時に、「喜一郎は、発明王として知られる父・豊田佐吉が発明した自動織機の製造・販売許諾権を、当時世界最大の繊維機械メーカーだったイギリスのプラット社に譲渡して得た100万円(10万ポンド)をもとに自動車事業を始めた」などの、喜一郎に関する“通説”を覆す新事実がいくつも盛り込まれ、読み物としても実に興味深い。  今回、両著者のうち、喜一郎が大学卒業後から死去するまでを担当した、『豊田喜一郎文書集成』(名古屋大学出版会)の著書もある和田教授に、喜一郎と織機との関わり、自動車事業進出のいきさつ、喜一郎の実像、喜一郎の精神がいまのトヨタにどう活かされているのか―――などについてインタビューした。
インタビューのページへ
 ●G型自動織機の発明は豊田佐吉ではなかった
 ●「豊田・プラット協定」の10万ポンドは何に使われたか?
 ●目指すは月産500台の自動車メーカー
 ●いまのトヨタに綿々と息づくもの


インタビュー写真
《撮影=白幡英俊》

豊田喜一郎の足跡を追う

日本で最初の動力織機等、数々の発明をした豊田佐吉の長男として生まれ、優れた技術者として活躍し、トヨタ自動車を創業、将来における大衆乗用車時代を夢みて情熱を傾け続けた喜一郎の生涯を追った。


■豊田喜一郎の生家

喜一郎は明治27年(1894)、静岡県敷知郡吉津村山口(現、静岡県湖西市)で生まれた。生家は貧しく、父の佐吉は17、18歳の頃から織機の研究に没頭する。東京、名古屋、豊橋などを転々としていた佐吉が、家にいることはほとんどなかった。喜一郎が生まれたときも佐吉は豊橋にいた。出生の知らせを聞いた佐吉はいったんは家に戻ったが「喜一郎」と命名するとすぐに豊橋へ戻ってしまった。そんな生活に愛想をつかした佐吉の妻「たみ」は、喜一郎を生んで2か月後には実家に戻り、再び佐吉の元へ帰ることはなかった。喜一郎は祖父母である「伊吉」と「えい」によって育てられた。


■幼少の頃の豊田喜一郎と妹愛子

喜一郎が3歳の時、父佐吉は名古屋市内に家を構え、再婚する。こうして、喜一郎はようやく父親と共に生活するようになる。やがて異母の妹「愛子」が生まれる。喜一郎と愛子は異母兄弟とはいっても、仲の良い兄弟であったといわれている。豊田自動織機製作所の初代社長は、妹愛子の夫として豊田家へ婿養子に入った利三郎である。現在なら利三郎が喜一郎の義理の弟となるが、当時の民法では、同一戸籍内にある者は、年長者が兄と決められていた。


■若き日の豊田喜一郎(24歳頃)

名古屋の小学校、中学校(旧制)を卒業し、仙台の第二高等学校(旧制)から23歳で東京帝国大学工学部機械工学科へと進学する。大正9年(1920)、26歳で大学を卒業するが、すぐに同法学部に入学。ここで半年間、授業を聴講する。喜一郎といえば、研究・開発者、技術者としてのイメージが強いが、たとえ半年間でも法律を学んだということは、将来の経営者としての自覚を持っていたのかもしれない。そして27歳で豊田紡織に勤務する。


■海外視察時の豊田喜一郎と豊田利三郎、愛子

大正10年(1921)、豊田紡織に勤務してすぐ、喜一郎は豊田利三郎・愛子夫妻とともに、約半年間に及ぶ欧米旅行に出かける。この旅行の最大の目的は、当時イギリスにあった世界有数の繊維機械メーカー、プラット社での研修であった。日本では、喜一郎が工場の現場へ入ることを労働者は快く思わなかった。というのも、経営者の息子が現場のことを詳しく知れば、労働条件などの強化策を進言されるかもしれないと思われたからだ。しかし、外国の工場ならば、そうした懸念はなかった。喜一郎はプラット社の工場の近くに下宿し、紡績機械の製造現場を2週間以上にわたり研修し、工場レイアウトから、機械の製造工程などを細かく記録した。
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《取材・文=前田栄作》
《写真=水野鉱造》