ジドウシャへの夢と決断
和田一夫・東京大学大学院経済科教授
豊田喜一郎伝
和田一夫、由井常彦
¥2,800
発行=名古屋大学出版会
G型自動織機の発明は豊田佐吉ではなかった
―― これまでの“通説”では、自動織機は発明王といわれた豊田佐吉が、自動車はトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)創業者である息子の、豊田喜一郎が手掛けたといわれていました。ところが、和田先生が書かれた『豊田喜一郎伝』では、この“通説”が覆され、佐吉が開発したといわれてきた、当時としては画期的な「G型自動織機(無停止杼換式豊田自動織機)」が実は喜一郎によって開発されたことが明らかにされていますね。

和田 G型自動織機の製造・販売権(特許権)を、当時、世界最大の繊維機械メーカーだったイギリスのプラット社に譲渡したときの契約書、いわゆる「豊田・プラット協定」を見るために、イギリスに行きました。その契約書には、はっきりと豊田喜一郎と書いてありました。調べてみると特許明細書にも豊田喜一郎と書いてある。資料の中で、喜一郎自身が「G型自動織機は自分(喜一郎)としてはかなり力を入れてやった」とか、「みんなは(G型自動織機の開発は)親父(佐吉)だ親父だと言うけど、親父の言うやつでは動かなかった」と言っている。もちろん、G型自動織機の開発はチームでやっているので、あまり喜一郎だけを誉めすぎるのはどうかな、と思ってはいますが、G型自動織機の開発を喜一郎が手掛けていたことは間違いありません。
―― 喜一郎はなぜ、自分がG型自動織機を開発したと言わなかったのですか。

和田 自動織機の発明王として当時ものすごい勢いがあり、カリスマ的存在だった佐吉が発明したことにしたほうが、G型自動織機を売る面ではプラスだと考えたからでしょうね。ようするに佐吉の威光を借りて商売がしたいわけですよ。調べてみると、G型自動織機の研究会のときの案内状には送り主は佐吉と書いてあるのですが、実際は喜一郎が挨拶をしています。人を集めるためにも、佐吉の名前を使ったほうがよかったのでしょうね。親父が見事にやったG型自動織機を息子が紹介します、そういう感じだったのかなと思っています。

―― それで、佐吉がG型自動織機を開発したという“通説”ができあがったというわけですね。

和田 そうですね。でも、身内は喜一郎がG型自動織機を開発したことを知っていましたね。私が喜一郎の長男である豊田章一郎さん(トヨタ名誉会長)にインタビューしたとき、章一郎さんは「ボクは(喜一郎がG型自動織機を開発していたことを)知っていたよ」と、言っていましたからね。

※ …『豊田喜一郎伝』によれば、G型自動織機が完成した1924年(大正13年)当時、佐吉は発明の第一線からは退いて、中国・上海に設立した豊田紡績廠の経営に力を注いでいる。
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 ●G型自動織機の発明は豊田佐吉ではなかった
 ●「豊田・プラット協定」の10万ポンドは何に使われたか?
 ●目指すは月産500台の自動車メーカー
 ●いまのトヨタに綿々と息づくもの

豊田喜一郎の足跡を追う

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■無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G型)完成
織機は佐吉、自動車は喜一郎といった具合に親子で全く異なる開発に取り組んだように思われがちである。確かに佐吉は自動織機の開発で特許を取得しており、日本人による自動織機特許の第一号である。しかし、いまだ「完全」な自動織機ではなかった。欧米視察旅行から戻った喜一郎は紡織機の研究開発に専念し、大正13年(1924)には、無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G型自動織機)を完成させ特許を出願した。「完全な自動織機」を完成させたのは、実は喜一郎であったのだ。織物はたて糸を上下に開き、そのすき間へよこ糸を入れ、筬(おさ)で打ちつけていく。G型自動織機は、よこ糸の補充を機械を停止させることなく瞬時に行うという画期的な織機であった。
■G型自動織機の集団運転
G型自動織機を制作するため、豊田自動織機製作所が大正15年(1926)に現・愛知県刈谷市に設立され、同社の常務取締役に就任する。ここで生産された織機は、日本の織物工業の発展に尽くしたばかりか、海外にも輸出され、日本の経済発展に大きく貢献した。写真は昭和初期における織布工場を再現した様子。
■G型自動織機の組み立てライン
豊田喜一郎は、G型自動織機の組み立てに、チェーンコンベアによる流れ作業を採用した。この方式が後に自動車の生産ラインにも応用され、「ジャスト・イン・タイム」といったトヨタ生産方式へとつながっていった。この方式は、たんに量産技術の確立を図るだけでなく、品質確保の確立も図られていた。
■英国プラット社と特許契約締結時の関係者
昭和4年(1929)、喜一郎はG型自動織機の特許権譲渡交渉のため、欧米に出張し、G型自動織機の特許権譲渡契約をイギリスのプラット社との間で締結した。ただしこの特許契約は、喜一郎個人とプラット社との間で行われた。ところが、大正10年に喜一郎が見たイギリス繊維業の繁栄の姿はすでになく、プラット社のあるオールダムの町は失業者であふれていた。いずれ、日本にもイギリスと同じような状況が訪れることを予測した喜一郎は、未知の事業に乗り出さなければならないと感じ取った。英国プラット社との特許権譲渡契約を締結した翌昭和5年(1930)5月、喜一郎は豊田自動織機製作所に自動車の研究室を開設する。そして、その年の10月、豊田佐吉は逝去した。
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