目指すは月産500台の自動車メーカー
―― 『豊田喜一郎伝』を読むと、佐吉は発明家として苦労したので、息子の喜一郎には同じ苦労をさせたくないと、喜一郎には経営者としての道を歩むように勧めますね。ところが、喜一郎はG型自動織機を開発したのをみてもわかるように、研究者として父・佐吉と同じ道を歩みたいという気持ちが強かった。喜一郎は本心では経営者としての道を歩みたかったのか、研究者としての道を歩みたかったのか、どちらだったのでしょうか。

和田 東京大学を卒業した時点では事業家には絶対になりたくないと思っていた。喜一郎は東大工学部で機械工学を学んでいます。超エリートですよ。当時の東大工学部機械工学科を卒業した超エリートは船か、鉄か、機械に進んでいました。繊維機械の会社なんて行かないのです。それを父・佐吉から「来い」といわれ、しかも繊維機械ではなく、糸そのものを作る会社だったわけですから。不満たらたらだったのではないでしょうか。ところが繊維産業が衰退し、佐吉から引き継いだ家業と従業員を守らなくてはならなくなる。事業家にならざるをえなくなった。しかし、このまま繊維機械メーカーとして生きていくのは難しい時代が到来した。このままではダメだと思ったときに、機械工学の技術者として自動車に興味を持った。だから、半分は経営者なんだけど、気持ちもう半分は技術者として自動車事業をやることに夢を持ったと思います。通説では佐吉が喜一郎に対して「お前は自動車をやれ」と勧めたことになっていましたが、当時の佐吉は病床にあって「豊田・プラット協定」の報告すら聞くことができない状態でした。社内的にも佐吉の意思だと伝えることでやりやすくなるためそのまま伝わったのだと思います。

――「豊田・プラット協定」の締結が皮肉にも喜一郎に繊維機械産業の衰退を実感させるのですね。当時、世界最大の繊維機械メーカーだったプラット社が、日本のG型自動織機の特許権を買わざるを得ないほど、経営的には苦しくなっていた。喜一郎は「豊田・プラット協定」を結ぶ交渉のために、アメリカ経由でイギリスに行っていますが、自動車事業の進出はこのときに最終決断したと考えもよいのでしょうか。

和田 そう思います。しかし、繊維機械を含めた繊維産業の衰退以外にも、喜一郎が自動車事業に進出させた要因はありました。喜一郎は自動車ではなく、自転車に進出することも考えた。でも、自転車だと大きな企業は不利だと判断した。下請け程度の企業規模なら自転車はいいかもしれないが、豊田自動織機製作所は自転車のような小さな事業をやれるレベルではないと考えたようです。創業時から一貫しているのは、鋳物を使って、自分のところで組み立てるということ。生産の互換性を考えると、最終的には自動車にいってしまうのではないですか。しかも、自動織機は非常に精度の高い工作技術が必要で、豊田自動織機製作所はすでにそれを持っていた。その技術をどこに活かせるかと最終判断したら、自動車だったということもあったと思います。アメリカでも、民需で最終的に発達したのは自転車でもミシンでもなく、クルマなのです。軽自動車メーカーのスズキも、自動織機が前身ですよね。

―― 喜一郎はアメリカの事情に精通していた?

和田 喜一郎は自動車を正式に学んだこともなければ、自動車の技術も知らない。ただ、アメリカの自動車の動向だけはものすごく知っていた。アメリカの自動車メーカーが、自動車だけではダメで、飛行機も手掛けるようになると、喜一郎はヘリコプターというか、オートジャイロみたいなものもやり始める。当時、フォード・モーターがクランクシャフトを作って成功しているという話が雑誌に載る頃に、喜一郎は「クランクシャフトをいろいろと作りなさい」と部下に命じ、困った部下がいっぱいいた。技術者としては当時のアメリカを常に意識しなければならないわけで、喜一郎はアメリカやヨーロッパの雑誌をよく読むか、あるいは読ませて情報を吸い上げていたことがよくわかります。当時のアメリカでは、月産500台規模の小さい自動車メーカーがいっぱいありましたが、喜一郎はそういう事情も知っていて、喜一郎が目指したのは実はその規模だったのでは、とも思います。
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 ●G型自動織機の発明は豊田佐吉ではなかった
 ●「豊田・プラット協定」の10万ポンドは何に使われたか?
 ●目指すは月産500台の自動車メーカー
 ●いまのトヨタに綿々と息づくもの

豊田喜一郎の足跡を追う

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■G1型トラックの第一号試作完了
喜一郎が一番作りたかったのは、あくまでも乗用車であった。しかし、日本は徐々に戦争への暗い道を歩み始めていた。A1型乗用車の試作に取りかかっていた頃から、兵員や兵器運搬のためのトラック製造が軍部によって求められるようになっていた。そこで、喜一郎は昭和9年(1934)から、トラックの製作も計画した。そのトラックのエンジンはA1型乗用車と同じものを使い、フレーム、ボディ、シャーシなどは、フォードとシボレーの部品がそのまま使えるように設計されていた。こうして、A1型乗用車の試作完了から3か月後の昭和10年(1935)8月、G1型トラックの第一号の試作が完了した。しかも、試作が完了すると同時に本格生産の体制に入り、同年11月にはG1型トラックの発表会を東京で行った。さらに12月には、愛知県挙母(ころも)町(現・豊田市)に約58万坪もの工場建設用地を取得した。そして昭和12年(1937)8月にトヨタ自動車工業株式会社が設立され、喜一郎は副社長に就任する。
■スーパーハイドラフト精紡機を完成
喜一郎は、自動車の研究・開発に携わる一方で、本業である紡織の開発も手がけていた。昭和12年(1937)には、スーパーハイドラフト精紡機を完成させている。これは、綿を糸に紡ぐまでにいくつもあった工程のうち、粗紡といわれる工程を省略し、スライバから直接糸にすることができる機械である。この機械の開発は、紡績の合理化に大きく貢献したと同時に、国産の技術を高く評価させることにもなった。また昭和13年(1938)には、杼換(ひがえ)式自動織機に関する発明で、帝国発明協会から恩賜記念賞を受賞した。
■挙母工場が完成
昭和13年(1938)11月、喜一郎が自動車の量産化を目指して建設を進めていた挙母工場が完成する。自動車製造を挙母工場へ移転するとき、それまでのインチ法からメートル法に変更をした。前列右から2番目が喜一郎。
■飛行機の研究
喜一郎は飛行機の研究にも取りかかっていた。飛行機の研究所は、昭和11年(1936)、東京芝浦に喜一郎の命令によって豊田英二が設立し、その後刈谷工場に移され、そこで木製のプロペラが試作された。さらに挙母工場の完成によって同工場内に飛行機研究所が設立された。喜一郎の夢は、飛行機、ヘリコプター、ロケットへと地上から大空へ広がっていた。ヘリコプターの試作機は完成したが、ついに飛び立つことはなかった。
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