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●ワゴンRが爆発的に売れるなんて思わなかった

―― GMは、ヨーロッパでは小さなクルマづくりでは評価の高いフィアットと資本提携しましたね。GMグループに、スズキのほかにもうひとつの小さなクルマづくりの技術をもつフィアットが加わったことをどう思いますか。

戸田 フィアットだけでなく、軽自動車をもつ富士重工業(スバル)さんとも、GMは資本提携しています。ウチとしては、小さなクルマづくりの技術を確固たるものにするしか、GMグループの中で生き残る道はないと思っています。

―― 富士重工とGMが資本提携したのを機会に、同じGMグループということで、スズキと富士重工が株式の持ち合いをしましたね。株式の持ち合いによって、両社はどういう協力関係を築こうとしているのですか。

戸田 両社のあいだで定期的にミーティングの機会をもち、協力できるものを探っています。例えば、軽自動車の部品を共通化しようということについてですね。ただ、部品の共通化はそう簡単にはできません。お互いにフルモデルチェンジのタイミングがあえばできますけどね。こういうこと(部品の共通化)は長期的な課題ですし、両社の役員が双方の生産工場を見学し、お互いに自らの生産技術を見せあって、なにか協力できるものはないかを検討しています。材料の共同調達なんかも難しい面はありますが、課題のひとつです。

―― これまでスズキとGMの関係は、22年間社長を務め、現在会長(CEO=最高経営責任者)である鈴木修さんと、J・スミスCEOとの関係だったといっても過言ではないかと思います。が、GMでは実権がスミスさんからR・ワゴナー社長(COO=最高執行責任者)に移りつつある。今後も鈴木修さんとスミスさんの関係だけで、スズキとGMの関係を維持するのは難しいのではありませんか。

戸田 スズキとGMがお互いに仲良くやっていくことは問題ないと思います。ただね、スズキとGMの人脈の接触については考えていく必要があると思います。ワゴナーさんについては、スミスさんを通して、ウチの会長も私もよく知っていますので、この点はまったく心配はありません。むしろ、私たちより若い世代がGMとのコミュニケーションがとれるような人間関係をつくっていくことが大事なことだと思っています。

―― 戸田さんは昨年6月末に、鈴木修さんの後を受けて社長(COO)に就任しました。創業家である鈴木一族以外から初めて社長になった。1958年に、静岡大学工学部を卒業して、同年、当時の鈴木自動車工業に入社し、以後、エンジンの開発におもに携わってこられたわけですが、技術屋としての戸田さんはこれまでたいへんな実績を残されたんですね。まさに社長になるにふさわしい実績だといっていい。

戸田 いやいや、そんなことないです。

―― 1967年に発売された『フロンテ』は、当時の軽自動車が2気筒エンジンが主流だったころに、3気筒エンジンを搭載して、大ヒット商品になりましたね。フロンテの3気筒エンジンの開発に携わったのが戸田さんだった?

戸田 そうそう。当時、サーブが2サイクルで3気筒でした。BMWもそうだったように思う。そこで、いろいろと実験をしてみたんですが、やっぱり3気筒がいちばんスムーズだった、そこでフロンテには3気筒を載せてみた。これが良かったんでしょうね。

―― なんといっても戸田さんの最大の功績は1993年に発売され、爆発的なヒット商品となった『ワゴンR』を手掛けたことですね。

戸田 あれは運が良かったんでしょうね。アメリカでミニバンが急速に台頭し始めた。それで、ウチでは、軽自動車のミニバンを作ってみようということになったんですよ。だから、本当は1993年よりもっと早い時点で、軽のミニバンを発売するつもりだった。ところが、先に『セルボ』というクルマを出すことになったのです。セルボをやっているあいだ、軽のミニバンはお蔵入りしていました。アルトはマツダさんにプラットホーム(車台)を提供しており、マツダさんはそれをベースに『キャロル』というクルマを出された。そのキャロルを、ウチの(鈴木修)会長(当時は社長)が見て「おい、向こう(キャロル)は丸いが、ウチ(アルト)は角張っている。ウチ(スズキ)も丸いやつをもう1車種追加しろ」という話になって、我われはセルボにかかりっきりになってしまったのです。軽のミニバンはお蔵入りしていたので、出すまでに時間がかかると思った。ところが、ひとり頑固なデザイナーがウチにいまして、彼がひとりでずっとコツコツと手掛けていたんです。彼がやってくれていたために、1993年の発売が可能になったのです。

―― 軽のミニバンのデザインはすでにでき上がっていた?

戸田 そう。それでどんな具合だって見たときに、私はびっくりした。大きいヘッドランプでね。おいおい、いったいこれは何だと(笑)。だから、爆発的に売れるなんてとても思いませんでした。

―― 大ヒット商品、軽のミニバン、つまりワゴンRはそうして誕生したわけだ。

戸田 ワゴンRという車名は最初からそうつけられたわけではなかったんですよ。最初は舌を噛むような名前だった。その車名を聞いた(鈴木修)会長が「そんな名前じゃダメだ」といって、「これはワゴンだから、ワゴンというのはどうだ」と提案した。ワゴンというのは車種を示す一般のネーミングだからダメだ、と私は言ったんです。すると会長は「じゃあ、ワゴンにRとかWとかを付けたらどうだ」というので、それならいいかというので、認証の下りる確か2、3日前でしたね。車名をワゴンRに変更したのは。

―― そんなギリギリの段階で?

戸田 認証もらうのに、最初の車名も登録していますからね。ワゴンRに変えるのに運輸省に頭を下げっぱなしでした(笑)。

《写真=井手孝高》
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