【鈴鹿8耐】“キング”ケニー・ロバーツ…8耐出場のきっかけ「後戻りできなかった」 インタビューその1

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ケニー・ロバーツ氏
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1985年の“コカ・コーラ”鈴鹿8耐に15万6000人のファンが押し寄せた。15万人を超えるのはこの年が最初であり、その多くのファンの視線は一点に絞られていた。そう、その視線の先にはキングことケニー・ロバーツがいた。

ロバーツは1983年にフレディ・スペンサーに敗れ、この年に世界グランプリを引退。翌1984年の春にロバーツはデイトナ200マイルレースに出場するが、そこには若き平忠彦がいた。平は、ロバーツが引退した1983年に全日本GP500のタイトルを獲得。一時代を築いたライダーと、これから一時代を築くライダーのファーストコンタクトだった。しかし、セカンドコンタクトは意外と早く訪れる。

「1984年末だったと思う。ヤマハから鈴鹿8耐参戦のオファーが来たんだ。即答したよ。『NO』ってね。しかし、ヤマハのマネージャーが、ケニーが出場すればビッグスポンサーがつくかもしれないからと、ことある毎に真剣に誘うものだからこっちも折れてしまったんだ」

「ただ、鈴鹿サーキットも、ヤマハの新しい4ストロークマシンFZ750も知らないから、事前に確認したいと言ったんだ。それで1985年の鈴鹿200kmレースに視察に行って、そのままヤマハのテストコースでマシンに試乗したけれど、改めて『NO』って言ったんだ。鈴鹿サーキットは、第1~第2の複合コーナー、ダンロップコーナー、スプーンカーブが私のライディングスタイルでパフォーマンスを発揮できるが、その他はあまりエキサイティングではなかった」

「リズムが大切なコースで、当時はフルブレーキングからマシンを倒し込んでアクセルを開けていくというコーナーが少ない印象だったね。それとマシンも、それほどインパクトがあるものではなかったんだ。でも、この段階ですでに出場に向けて動き始めていて、後戻りはできなかったよ」

1985年、ヤマハは4気筒5バルブというまったく新しい4ストローク750ccエンジンを搭載したFZ750をリリースしてTT-F1クラスに打って出た。そしてその檜舞台として鈴鹿8耐にケニー・ロバーツと平忠彦のペアで挑んだのだ。

「デイトナ200マイルで平のことは知っていた。若いし、勢いがあるライダーで、パートナーとしてはなにも問題はなかった。ただ、マシンに関してはインレットポートが大きすぎて、これが問題になると感じていたんだ。もちろんヤマハスタッフに提言したけれど、ケニーは2ストロークしか乗っていないから4ストロークのことはわからないという雰囲気の中にもみ消されてしまったんだ」

当時の鈴鹿8耐はワイン・ガードナーの独壇場だった。1984年の予選では2分21秒97を記録しており、1985年の予選では2分20秒台が期待されていた。しかし、ロバーツが予選を走り始めると、なんと20秒台を一気に通り越し2分19秒956をマーク。ヤマハスタッフは狂喜乱舞し、ピットからはKR19のサインが出された。だが、これがロバーツを怒らせる。

「私にとってタイムは結果に過ぎず、予選を含めた各走行でどれだけ理想のマシンに仕上げることができ、どれだけ理想の走りができたかが重要なんだ。これはGPのときから続けてきたことで、だから予選でいきなりピットボードが出され、そこに19の数字を見たとき、なにが起きたんだ?トラブルか?19の意味はなんだ? とパニックになってしまった。それでアタックを止めてピットに戻ったらみんなが大喜びしている。これには唖然としたよ」

「『なんでボードを出したんだ!! 意味がわからない』と激怒したのだけれど、それでもスタッフの興奮は収まらず、『もう一度走ってくる』と言ったら、もう行かなくていいと言われてね。もちろんこのピットボードの提示がなければ、もっといいタイムが出ていたよ。でも、あのタイムが出たときは、シケインからチェッカーまでがとてもスムースに走れていて、シケインでスライドさせていたらタイムは出なかっただろうけど、それがなかったから自分でもファステストだってわかったよ。ものすごく集中できていたね」

そしてロバーツの憂鬱をよそに一夜が明け、いよいよ1985年の鈴鹿8耐決勝レースを迎える。

《佐久間光政》

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