【スロットカーレジェンドカップ】鈴木亜久里選手出場、その眼は遊びかマジか

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往年のグラチャンマシンを忠実に再現したモデル群。
  • 往年のグラチャンマシンを忠実に再現したモデル群。
  • クルマの中央下に見えるのがいわゆるスロット、溝である。
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  • 和気あいあいの和やかな雰囲気。
  • 予選まではこの目つきだった。
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スロットカーをご存じだろうか。1960年代に大流行した、クルマの模型によるレースを楽しむ遊びだ。因みにこのスロットカー、最小のモータースポーツとも言われている。

基本的には鉄道模型の自動車版で、スロットと呼ばれる溝にはまったガイドを頼りに、クルマを走らせるもの。つまり、ステアリングはない。アクセルの代わりにコントローラーと呼ばれるスピードを可変させるガングリップタイプの器具を持ち、それを巧みに操ることで、コーナーワークが左右されて、ラップタイムが変わる。

そんな遊びに、大の大人たちが興ずる。しかもその大の大人たちは、かつてサーキットで名を馳せた往年の名レーサーたち。そして彼ら走らせるのは、70年代にサーキットを沸かせ、当時自らが操った富士グランチャンピオンシップを走った、いわゆるグラチャンマシンを忠実に再現したものだ。

当日このスロットカーのサーキットに集まったのは、この会をまとめる言わば音頭役の、元チームトヨタであのトヨタ7などをドライブした鮒子田寛氏をはじめとした総勢18名。ドライバー以外にも当時のグラチャンを取材したカメラマン、スピードウェイの裏方を務めたオーガナイザー、メカニック、それにメディア関係者など、歴史的グラチャン・レースを支えた面々が顔を揃えた。中でも今回はあの鈴木亜久里選手の出場が話題を呼んだ。

レースは完熟走行に始まり、予選そして本戦と、基本的にはホンモノのレースと全く同じスケジュールで行われる。ただし、争うのは名誉と小さな盾、それにワインである。それでもKWサスペンションの輸入で知られる橋本コーポレーションがスポンサーに付くなど、イベントとしてはかなり本格的。しかも今年で7回目を迎える歴史も持つ。

今回特徴的だったのは、ホンモノ感を演出するためにドライバーはすべてレーシングスーツを着用でレースに臨んだことだ。写真撮影から予選までは実にリラックスした表情を見せていたドライバーたち。ところが、その予選途中からラップタイムが更新されて暫定ポールポジションが入れ替わるたびに、野次が飛び、そして目の色が変わる。そして本選。この頃になるとレジェンドドライバーたちも完全に戦闘モードとなって、その目つきは当時の鋭い眼光になっていた。初参戦は鈴木亜久里氏と、かつてスカイラインGT-R使いとして名を馳せた久保田洋史氏の2名。鈴木氏はすでにスロットカーに慣れ親しんでいたが、久保田氏はどうやら初めてのようで、ホンモノのレースさながらに大汗をかいていた。つまり、気合の入れ方としては相当にマジだったのである。

鮒子田寛氏に言わせると、ホンモノ以上に力が入るとのこと。実際、クルマのサイズはホンモノの1/24のスケール。しかし、その走るスピードはそれをホンモノに置き換えると400km/hを超える。だから、これをカメラに収めるのは至難の業で、走行シーンはまともに撮ることが出来ない。和気あいあいのレース結果は元チームトヨタの高橋晴邦氏の優勝に終わった。因みに高橋氏、昨年の3位を除けば、この5年で4勝というスロットカー界のセバスチャン・ベッテルである。

《中村 孝仁》

中村 孝仁

中村孝仁(なかむらたかひと)|AJAJ会員 1952年生まれ、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾るクルマ好き。その後スーパーカーショップのバイトに始まり、ノバエンジニアリングの丁稚メカを経験し、さらにドイツでクルマ修行。1977年にジャーナリズム業界に入り、以来45年間、フリージャーナリストとして活動を続けている。また、現在は企業やシニア向け運転講習の会社、ショーファデプト代表取締役も務める。

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