●東大4年の時、剣道部の主将を務める
――張さんは約15年間、いまや世界のビジネスモデルであるトヨタ生産方式を生み出した生産管理部に籍を置いていましたね。上司には、トヨタ生産方式の「生みの親」である大野耐一さん(元・旧トヨタ自動車工業副社長)、それに大野さんの「直弟子」である鈴村喜久男さん(元・旧トヨタ自工生産調査部長)がいた。大野さん、鈴村さんともに大変怖い人で、彼らが雷を落とすと、怒られた当人だけでなく、周囲の人まで震え上がったそうですね。
張 私は大学(東京大学法学部)で剣道部におりまして、あまり勉強もせず、道場にばかりいました(※ 張氏は東大剣道部で四年のとき主将を務めた。そのときの副将は、オウム事件の際中、何者かに狙撃された元警察庁長官で、現スイス大使の国松孝次氏である)。道場ではでっかい怒鳴り声がしょっちゅう飛んできます。声だけではなく、もの(竹刀)も飛んできますよね。トヨタでは(大野氏や鈴村氏に怒鳴られても)声だけしか飛んでこないんだから、まあ、よく私も怒鳴られましたが、あの道場での稽古に比べればそうびっくりするものでもないんです。
――でも、他の人はそうはいかないでしょう。大野さんや鈴村さんのあまりの怖さに「もうあの人たちの顔も見たくない」と言いだす人もいたそうですね。
張 大野さん、鈴村さんがバーンと怒鳴る、怒鳴っておいて、「あとはおまえちゃんとやっておけ」といってさっと帰ってしまう。それで、いま大野さんや鈴村さんが何で怒ったのかを説きおこすのが私の役目になってしまいました。
――トヨタ生産方式は大野さんや鈴村さんがトヨタの元町工場の一角からスタートし、元町工場全体に、さらにトヨタの全工場に、そして系列部品メーカーにと拡大していき、世界に冠たるトヨタ生産方式が確立されたんですよね。もし、大野さん、鈴村さんのように怒鳴る役割の人だけだったら、果たしてトヨタ生産方式が系列部品メーカーまですんなり拡大していったかどうか。何で怒ったのかを説く役割の張さんがいたればこそ、トヨタ生産方式が確立できたように思います。
張 いやあ、大野さんや鈴村さんは「ここがいけないんだ」と、結果だけいう。私は「それはこういう意味でだめだったんだよな」、「なぜこうなっているのかというものをみんなでよく考えようよ」というようなことをよく話しました。いい役割だったんですね。鈴村さんからは「だいたいおまえは事務屋で口がうまいから」とよく言われました。
――トヨタグループの結束を確立する方法として持ち株会社構想が打ち出されたとき、グループ各社の中には反発するところもあったようです。じつは私は、張さんは社長として生産管理部時代に果たした役割と同じ役割を果たすのではないかと考えています。大野さん、鈴村さんに怒鳴られ、反発した人たちを説得し、大野さん、鈴村さんがなぜ怒ったのかを説明して理解を得たように、奥田さんが持ち出した持ち株会社構想に反発するグループ内の企業に、この構想の真意は何かを説明し、理解を求めるという役割です。
張 そういわれればそうかもしれません。が、私自身はあまりそれを意識してはいません。
――トヨタグループが結束するのは、世界の強豪自動車メーカーと互角に競争することが狙いだそうですが、他には狙いがありますか。
張 やはりもうひとつは、国内外の企業にグループ各社が買収されることを阻止するためですね。クルマの設計・開発段階からグループ各社が関わっている今日、もしグループ各社のどれかが買収されるようなことにでもなれば、トヨタにとっては大打撃ですから。
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東京大学法学部卒。60年、トヨタ自動車工業株式会社に入社し、88年トヨタ自動車株式会社(82年に社名変更)取締役就任。同年12月、トヨタモーターマニュファクチャリングUSA株式会社取締役社長となる。94年、トヨタ自動車株式会社常務取締役就任。99年6月より、取締役社長として指揮をとる。 |
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経済誌編集長を経てフリー経済ジャーナリストへ。「週刊文春」「週刊現代」「週刊朝日」「プレジデント」などの雑誌や、「ニュースジャパン」(フジTV)で活躍。著書に「トヨタ創意くふう提案活動」「自動車大ビッグバン」などがある。 |
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