開発者の言葉によれば、1993年に、トヨタは21世紀を見据えた提案型のクルマを企画することをはじめた。これは「G21」と呼ばれるプロジェクトだった。G21は、新しい時代の量産セダンの理想像を追い求めるもので、燃料消費を半分にするという、途方もない省エネ性能を目標とした。
この時点ではまだ、ハイブリッドが前提であったわけではない。とはいえハイブリッドの開発がなかったわけではなく、電気自動車を開発していたグループがハイブリッドシステム開発を立ち上げ、94年から動き出している。そのふたつのプロジェクトが合体し、95年半ばにハイブリッドカー開発が正式に決まるのである。同年秋、第31回東京モーターショーに、コンセプトカーとしてのプリウスが登場する。
したがって、95年のコンセプトカー、プリウスにおいては、ハイブリッドシステムが前面に押し出されるのではなく、次世代セダンを示すことに重点が置かれた。ハイブリッドシステムは、そのためのひとつの要素に過ぎなかったのである。 |


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だが、ここから97年暮の市販車プリウス誕生までに、ハイブリッドの位置づけが大きな意味を持つことになる。当時開発責任者を務めた現副社長の内山田竹志氏は、こう語っている。「ハイブリッドカーらしいハイブリッドカーであることにこだわった」と
それが、2個のモーター・ジェネレーターを備えたシリーズ・パラレル方式によるハイブリッドシステム、「THS」(TOYOTA Hybrid System)である。
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その後、エスティマ・ハイブリッドとして登場する、1個のモーター・ジェネレーターとCVTを組み合わせた「THS-C」と、36V電源を用いたアイドリングストップを主とするクラウンマイルドハイブリッドとして登場した「THS-M」は、ハイブリッドカーの将来を占う上で、トヨタの試行錯誤のようすをうかがわせるものといえる。この間、トヨタは燃料電池車も、ハイブリッドカーと位置づけた。
そうした経緯を踏まえ、03年にフルモデルチェンジした2代目プリウスの「THS-II」は、昇圧による高電圧を生かすことにより、燃費性能のさらなる改善と、動力性能の飛躍的向上を実現したハイブリッド・シナジー・ドライブを完成させたのである。

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その先にあるのは、プラグインハイブリッドだ。蓄電容量を増大させ、充電装置を持つことにより、電気自動車としての走行距離を伸ばすことを可能にしたハイブリッドカーである。EVモードと呼ばれる電気自動車的な走行は、初代プリウスから備えられていた。それを、より電気自動車に近づけるのがプラグインハイブリッドである。
プラグインハイブリッドの開発担当者は、初代プリウスが誕生したときにプラグインハイブリッドの可能性はまだ見えていなかったと話す。だが、ハイブリッドカーらしいハイブリッドカーにこだわった開発をしたからこそ、プラグインハイブリッドという新たな展開につながったと語るのである。
これと同時に、燃料電池車の走行性能を伸ばすこともトヨタは忘れていない。燃料電池の改良や充放電制御の改善に加え、70MPaの高圧水素タンクを搭載したFCHVは、07年9月、大阪〜東京間約560kmをたった一度の水素補給のみ走破した。
極めることが未来を拓くという大切さ、その重みを、トヨタのハイブリッドシステム開発の歴史は物語っている。 |
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