――13年余り前に話を戻して頂きますが、内山田さんは1994年1月に「G(ジェネレーション)21」というプロジェクトチームのチーフに指名されました。この「G21」が初代プリウスを誕生させることになりました。
内山田 当初は21世紀のクルマを世に提案しようという漠然としたプロジェクトでした。21世紀に避けては通れない課題に対し、ひとつの答えを出そうということです。メンバーとさまざまな角度から勉強して、安全技術、環境とエネルギーの問題、女性の社会進出、さらにIT(情報技術)進展への対応――などを抽出しました。このなかで、安全については当時でもかなり進展していたので、時間軸で避けては通れないだろうという「環境とエネルギー」を意識したクルマということになりました。
燃費を追求したクルマというのは各社で商品化していましたが、既存エンジンを改良して走りや装備面を犠牲にした、いわば“ガマン車”でした。そういうレベルではなく21世紀にふさわしいクルマを追求しようと。従来技術でも30%程度の燃費改善はできるが、わたしたちは従来技術の延長線上を超える50%を目指そうということにしました。
およそ半年でそういうコンセプトを固めたのです。ただ、安全装備ですらエアバッグやABSを標準装備にするかどうか大議論していた時代でしたから、果たしてお客様から「環境」で、お金を頂けるのかという不安はありました。ところが、経営トップ層にプレゼンすると「いいじゃないか。進めよう」ということでした。
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――そのときは、まだハイブリッドでやるということではなかったのですね。
内山田 実はそうなんです。94年の秋になって翌95年の東京モーターショーに、われわれのコンセプトカーを出すことが決まりました。そして、ショー用のクルマだけにはハイブリッドを載せようということになったのです。
ところが、コンセプトカーの準備の段階で、トップから「市販するクルマもハイブリッドでいこう」という提案が出されました。
その段階では私は反対しました。社内でもまだ研究レベルの未成熟な技術でしたし、コストも非常に高いものになる。しかし、トップも「G21」にふさわしい技術じゃないかと譲りません。
こうして94年末に、まだ正式な承認ではなかったのですが、ハイブリッド車の商品化が固まったのです。スケジュールを押さえないと前に進めないので、プロジェクトとしては仮の投入時期を98年末と決めました。
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