「豊田・プラット協定」の10万ポンドは何に使われたか?
―― 和田先生は以前イギリス経営史が専門で、プラット社については“土地カン”があったわけですね。

和田 そうですね。プラット社で私のふたつの研究が交わったときは少し興奮いたしました。“土地カン”ンといえば章一郎さんをイギリスのオールダムにあったプラット社の跡地に案内したり、1922年(大正11年)に喜一郎がプラット社で工場実習をしたときのオールダムの下宿も案内しました。下宿先は今も残っていて、章一郎さんは感慨深げに見ておられた。章一郎さんが「(下宿先の)中に入ってみたい」と言ったので、私は「建物を買い取ってくれと言われるかもしれませんよ。高くつきますよ」と言った。章一郎さんは苦笑して、結局は中に入りませんでした。

―― 1929年(昭和4年)にG型自動織機の特許権をプラット社に譲渡することになって、喜一郎はプラット社から特許料として10万ポンド(日本円で100万円=現在の貨幣価値だとおよそ10億円相当)を受け取ることになりますね。“通説”では、この10万ポンドをもとに、喜一郎は自動車事業を始めたわけですが、これも事実とは違っていたわけですね。

和田 「豊田・プラット協定」を見ますと、G型自動織機の特許権譲渡額は、まず契約時に、プラット社が一時金として喜一郎に2万5000ポンド(25万円)を支払い、その後の3年間、プラット社は喜一郎に毎年2万5000ポンドずつ支払い、その合計額が10万ポンドである、と明記されていました。つまり、100万円を丸々一回で受け取っているわけではない。しかも、喜一郎は自動車事業進出のために、豊田自動織機製作所の資本金を1934年(昭和9年)に300万円に増資、その後も500万円を上回る資金が追加的に必要となり、2回にわたる増資でまかなわれています。自動車事業のために1400万円位かかっています。とても100万円では自動車事業に進出できません。プラット社からの特許譲渡額の100万円で自動車事業に進出したというのは間違いです。

―― では、喜一郎が手にしたプラット社からのお金は何に使ったのですか。

和田 それをはっきりさせる資料を探していたのですが、その資料がトヨタの社内にあったのです。1931年(昭和6年)2月17日付けの『名古屋毎日新聞』の記事がそれです。見出しは「発明王の100ケ日に、25万円を投げ出す。佐吉翁の遺志を汲んで、関係9工場6000余名へ」でした。喜一郎はプラット社からの一時金25万円(現在の約2億5000万円相当)を、豊田紡績、豊田自動織機製作所、豊田押切紡績など、豊田系全会社の従業員に配ったのです。

※ …『名古屋毎日新聞』の記事によれば、25万円のうち10万円は佐吉とともに発明に際して苦楽を共にした縁故者に分配され、残り15万円は豊田系全企業の社員、役持職工800人に、それぞれ入社年限によりクローム金時計の中1個と金一封を。男工1700人にはインチ尺と金一封。女工3500人には錦紗風呂敷と金一封として配られた。

―― 喜一郎はなぜ、そんな大金を従業員に分配したのですか。

和田 1930年(昭和5年)にG型自動織機の受注が急激に減少し、国内の販売台数が落ち込んだことが原因で、豊田自動織機製作所の経営が悪化して、会社側は21名の従業員を解雇する方針を打ち出し、従業員側が反発して争議が起こりました。加えて、争議が円満解決した直後の1930年10月には、佐吉が亡くなっています。喜一郎はこのままだと従業員のモラルは低下し、経営悪化に拍車を掛けると思ったのではないでしょうか。だからこそ、佐吉の名前を使って25万円もの大金を配って、従業員のモラル低下の芽を摘み取ってしまおうと考えたのだと思います。

―― 喜一郎はなかなか優れた経営センスを持った人物だったのですね。

和田 私もそう思います。名古屋毎日新聞の記事を章一郎さんに見せたら、章一郎さんは「美談過ぎる。親父(喜一郎)を誉めすぎるみたいで嫌だな」と言っていました。でも、私は喜一郎が25万円もの大金を従業員に配るという経営判断をしたことは正しかったと思っています。
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 ●G型自動織機の発明は豊田佐吉ではなかった
 ●「豊田・プラット協定」の10万ポンドは何に使われたか?
 ●目指すは月産500台の自動車メーカー
 ●いまのトヨタに綿々と息づくもの

豊田喜一郎の足跡を追う

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■A型エンジン
自動車の研究で最初に取り組んだのはエンジンであった。そして、スミス・モーターのエンジンを参考に、小型エンジンを完成させたのは、自動車の研究をはじめて約5か月後であった。ただ、自動車の研究を始めたといっても、会社としての本業はあくまでも自動織機の開発、製造である。自動車の研究に携わる社員はわずかの人数であり、立派な研究室があるわけでもなく、工場の片隅を借りての研究であった。豊田自動織機製作所に自動車部が設置されたのは、ようやく昭和8年(1933)の秋。そして、将来製作する自動車のモデルとするため、シボレーを一台購入した。さらに豊田自動織機製作所が自動車事業進出を正式決定したのは昭和9年(1934)1月。3月には自動車の試作工場が完成し、その年の9月にはトヨタ最初の自動車用エンジン「A型エンジン」の試作が完成した(写真)。このエンジンの排気量は3,389cc、創業当初の豊田車に搭載された。
■豊田喜一郎邸
昭和8年、当時は名古屋市の郊外であった八事(現・名古屋市昭和区)に、別荘として建てられた豊田喜一郎邸。設計したのは、当時の名古屋建築界の第一人者といわれた鈴木禎次氏。半地下式で、外側の階段部分などは、アントニオ・ガウディを思わせる雰囲気をもっている。建築されたのは、豊田自動織機製作所内に自動車部が設置された年である。心身ともに多忙な喜一郎にとって、安息の場となったことだろう。
■豊田自動織機製作所に製鋼部研究所完成
喜一郎は、自動車用特殊鋼を開発するため、昭和9年(1934)、豊田自動織機製作所に製鋼部研究所を完成させる。もともとは、自動車製造には製造技術とともに材料技術が大切であるという喜一郎の考えがあり、そのための研究を目的としていた。しかし、自動車の製造準備を進めていくうち、目的にあった材料を高品質で供給するには、自給する必要があるとの考えに変わっていった。
■A1型乗用車の第一号試作完了
昭和10年(1935)、A型エンジンを搭載したA1型乗用車の試作を完了させた。A1型を生産販売したのがAA型である。産業技術記念館などに、当時の設計図をもとにして忠実に復元させて、実際に走行することができるAA型のレプリカが展示されている。寸法の単位はセンチではなく、インチである。また、ネジの頭はすべてマイナスである。ドアは観音開きで、後部座席が広く設計してある。オーナー自らがハンドルを握るということはなかったからだ。よく見ればウィンカーもない。当時の販売価格は約3300円、現在の貨幣価値に換算すれば、5000万円くらいになりそうだ。
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