日本で最初の動力織機等、数々の発明をした豊田佐吉の長男として生まれ、優れた技術者として活躍し、トヨタ自動車を創業、将来における大衆乗用車時代を夢みて情熱を傾け続けた喜一郎の生涯を追った。
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■豊田喜一郎の生家
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喜一郎は明治27年(1894)、静岡県敷知郡吉津村山口(現、静岡県湖西市)で生まれた。生家は貧しく、父の佐吉は17、18歳の頃から織機の研究に没頭する。東京、名古屋、豊橋などを転々としていた佐吉が、家にいることはほとんどなかった。喜一郎が生まれたときも佐吉は豊橋にいた。出生の知らせを聞いた佐吉はいったんは家に戻ったが「喜一郎」と命名するとすぐに豊橋へ戻ってしまった。そんな生活に愛想をつかした佐吉の妻「たみ」は、喜一郎を生んで2か月後には実家に戻り、再び佐吉の元へ帰ることはなかった。喜一郎は祖父母である「伊吉」と「えい」によって育てられた。
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■幼少の頃の豊田喜一郎と妹愛子
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喜一郎が3歳の時、父佐吉は名古屋市内に家を構え、再婚する。こうして、喜一郎はようやく父親と共に生活するようになる。やがて異母の妹「愛子」が生まれる。喜一郎と愛子は異母兄弟とはいっても、仲の良い兄弟であったといわれている。豊田自動織機製作所の初代社長は、妹愛子の夫として豊田家へ婿養子に入った利三郎である。現在なら利三郎が喜一郎の義理の弟となるが、当時の民法では、同一戸籍内にある者は、年長者が兄と決められていた。
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■若き日の豊田喜一郎(24歳頃)
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名古屋の小学校、中学校(旧制)を卒業し、仙台の第二高等学校(旧制)から23歳で東京帝国大学工学部機械工学科へと進学する。大正9年(1920)、26歳で大学を卒業するが、すぐに同法学部に入学。ここで半年間、授業を聴講する。喜一郎といえば、研究・開発者、技術者としてのイメージが強いが、たとえ半年間でも法律を学んだということは、将来の経営者としての自覚を持っていたのかもしれない。そして27歳で豊田紡織に勤務する。
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■海外視察時の豊田喜一郎と豊田利三郎、愛子
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大正10年(1921)、豊田紡織に勤務してすぐ、喜一郎は豊田利三郎・愛子夫妻とともに、約半年間に及ぶ欧米旅行に出かける。この旅行の最大の目的は、当時イギリスにあった世界有数の繊維機械メーカー、プラット社での研修であった。日本では、喜一郎が工場の現場へ入ることを労働者は快く思わなかった。というのも、経営者の息子が現場のことを詳しく知れば、労働条件などの強化策を進言されるかもしれないと思われたからだ。しかし、外国の工場ならば、そうした懸念はなかった。喜一郎はプラット社の工場の近くに下宿し、紡績機械の製造現場を2週間以上にわたり研修し、工場レイアウトから、機械の製造工程などを細かく記録した。
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《取材・文=前田栄作》
《写真=水野鉱造》
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