THS クロニクル プリウスの産みの親が語るTHSの10年間、そして、つぎの10年間 THS クロニクル プリウスの産みの親が語るTHSの10年間、そして、つぎの10年間
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KEY-PERSON INTERVIEW
ほぼ10年で累計販売台数100万台を達成したトヨタのハイブリッド車。つぎは「2010年代のできるだけ早い時期」(渡辺捷昭社長)に年間生産・販売100万台を目指す。その時点ではレクサスを含む世界のトヨタ車のほぼ1割がハイブリッド車となる見通しだ。初代『プリウス』開発のチーフエンジニアを務め、現在は生産部門を担当する内山田竹志副社長に、この10年を振り返りながら100万台体制に向けた課題や、プリウス誕生ストーリーなどを語ってもらった。
お客様の声とともに成長したハイブリッド技術 < TOP  1 2 3 4 5  NEXT >
内山田竹志氏 ――開発の指揮を執られた初代プリウスの発売から10年。トヨタハイブリッド車の累計販売は5月に100万台を突破しました。1997年末にプリウスを世に送り出すときは、発売後の反響をどう予想していましたか。

内山田 想定していた反響とは、相当な乖離がありましたね。初代は高岡工場(愛知県豊田市)に専用ラインを設けたのですが、生産部門からは「いったい何台生産すればいいんだ」といわれ、見当がつかず困りました。マーケティングの部署からの答えは月300台、よくて400台ということでした。

しかし、これではこの技術を普及させるんだというメーカー側の想いは伝わらないし量産効果も薄い。そこで、4ケタには乗せようということで月産1000台にしました。トップの了解も取って需要予測の2倍以上でラインを構えることにしたのです。

ところが、発売してみると納期まで長くて6カ月待って頂くほどの人気車になりました。わたしたちが思っていた以上に、お客様はハイブリッドに高い関心をもっておられたということです。

感激したのは実車を見られない段階でも多くの注文を頂いたことでした。97年の10月に「生産開始と発売は12月」と記者発表したのですが、その間に実車を見ずにカタログだけで注文されたお客様がおられたのです。そうした方々が、当社のハイブリッド技術を育て、今日に至ったのだと感謝しています。
池原照雄氏――100万台に至るまでには、いくつかの節目があったと思いますが。

内山田 そうですね。最初のターニングポイントは発売3年後の2000年に最初のマイナーチェンジを行なって北米など海外でも発売開始したときでした。マイナーチェンジといってもシステムはほとんどつくり直し、燃費も動力性能も高めたのです。

北米はガソリンは安いし、1.5リットル車としては割高なのでこんなクルマは売れないよという声もあったのですが、ハリウッドスターたちも乗り始めるなど、注目されました。すぐに日米の販売台数は逆転しました。

そのつぎはやはり、2003年の2代目プリウスです。システムは大幅に改良され、動力性能は2リッターから2.2リッターエンジン並みと不満のないものになった。デザインも近未来的で、明らかに他のクルマとの違いも出せました。ハイブリッドシステムの原価もずいぶんと下がり、そのぶん、クルマの装備充実に回すことができたのです。

――異常気象の多発による地球環境保全意識の高まりや、近年では原油価格の高騰でハイブリッドが注目される背景もありました。

内山田 それも大きいですね。さらに当社としては、お客様の要望にお応えする形で、ある時期から搭載車種のバリエーションを増やしました。それで、一段と世の中に認められることになりました。わたし自身の思いとしては、「初代プリウスを10万台売りたい」というのがありましたが、当初の生産計画を月1000台にしたくらいですから、難しいだろうなというのが本音でした。ところが実際は10万台を突破しました。この10年を振り返って、ハイブリッド車の普及は、わたしの予想した以上のスピードでした。
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