【イタリアのデザイン・ラボラトリー】ストゥディオ・トリノ:車の産声を聞き続けてきた名家、新領域へ

ストゥディオ・トリノ・モンチェンシオ×ウーゴ・ネスポロ(2017年)
  • ストゥディオ・トリノ・モンチェンシオ×ウーゴ・ネスポロ(2017年)
  • 初代アルフレード・ストーラ(1919年)
  • ランチア・ラムダ用木製1:1スケールモデル(1920年)
  • アルファロメオ2000ベルリーナ用マスターモデル(1955年)
  • ストーラ本社屋(1965年)
  • いすゞ117クーペのマスターモデル(1966年)
  • ジョルジェット・ジウジアーロによる三菱M計画(未発売)のマスターモデル(1969年)
  • フェラーリ・テスタロッサ(1981年)

イタリアにおいて、さまざまなアプローチでデザイン開発に携わる企業や人々を綴る本企画。第6回は「ストゥディオ・トリノ」に焦点を当てる。いすゞをはじめ日本車開発にも長年関与してきた企業の歩みと、その創業家による新たな工房を、当主アルフレード・ストーラへのインタビューとともに紹介する。

■マスターモデルのエキスパート

今日ストゥディオ・トリノを主宰するストーラ家の歴史は、まさにトリノ自動車産業史と重なるといっても過言でない。

始まりは、アルフレード・ストーラ(初代)が、造船所の見習い工で習得した技術をもとに1912年、25歳でトリノに設立したモデリングおよび鋳造工房だった。

初代アルフレード・ストーラ(1919年)初代アルフレード・ストーラ(1919年)

アルフレードが幸運だったのは、早くからランチアの創業者ヴィンチェンツォ・ランチアの知己を得たことだった。結果として、ランチアの木製モックアップ製作や鋳造部品製造を請け負うようになる。

ランチア・ラムダ用木製1:1スケールモデル(1920年)ランチア・ラムダ用木製1:1スケールモデル(1920年)

続いてストーラは、フィアット、OMといった他社との仕事でも実績を積んでゆく。第二次大戦中には、軍用車のランニング・プロトタイプ製作にもあたった。

戦後はアルフレードの3人の息子、フランチェスコ、ロベルト、ジュゼッペが会社に加わる。彼らは、とくにプレス用金型の元となる木型(マスターモデル)の製作に注力した。この頃、高級車ブランドから量産メーカーへと転換を図ったアルファ・ロメオもストーラの顧客リストに加わった。

アルファロメオ2000ベルリーナ用マスターモデル(1955年)アルファロメオ2000ベルリーナ用マスターモデル(1955年)

1960年代に入ってマスターモデルの素材が、従来の木から、あらゆる環境で精度が安定している樹脂へと変化したのにも迅速に対応した。欧州フォード、イノチェンティ、フェラーリ、ピニンファリーナもクライアントとなった。

ストーラ本社屋(1965年)ストーラ本社屋(1965年)

■117クーペやピアッツァも

日本との最初の関係は、カロッツェリア・ギア時代のジョルジェット・ジウジアーロによって1966年にもたらされた。いすゞ『117クーペ』であった。2年後の1968年に発売される同車の開発には、樹脂の品質管理用に当時としては最新の電子キャリブレーションを採用。精度向上を図った。

その後ジウジアーロが独立し、今日のイタルデザインの前身であるS.I.R.P.社を設立した直後も、ストーラは彼の仕事をサポートした。ジウジアーロにとって超初期のプロジェクトでありながら量産化には至らなかった三菱車のマスターモデルも1969年に製作している。

いすゞ117クーペのマスターモデル(1966年)いすゞ117クーペのマスターモデル(1966年)ジョルジェット・ジウジアーロによる三菱M計画(未発売)のマスターモデル(1969年)ジョルジェット・ジウジアーロによる三菱M計画(未発売)のマスターモデル(1969年)

以後ストーラがマスターモデルを製作した車には、アルファロメオ『アルファスッド』、『フィアット『127』、『パンダ』、『ウーノ』、『ティーポ』、ランチア『037』、フェラーリ『365GTC4』、『テスタロッサ』、サーブ『9000』、キャディラック『アランテ』など、戦後自動車史に名を残すモデルが並ぶ。

フェラーリ・テスタロッサ(1981年)フェラーリ・テスタロッサ(1981年)

1979年にはいすゞ『ピアッツァ』のマスターモデルも手掛けている。また、1980年代にはサーブの開発を通じて日本の金型メーカー、荻原鉄工所(現オギハラ)とも協業を実現した。

いすゞピアッツァのマスターモデル(1978年)いすゞピアッツァのマスターモデル(1978年)いすゞピアッツァのマスターモデル(1978年)いすゞピアッツァのマスターモデル(1978年)

1990年代にはサーブの新『900」、アルファロメオ『145』、『146』、ブガッティ『EB110』、ランボルギーニ『ディアブロ』、フェラーリ『456GT』、フィアット『バルケッタ』のマスターモデル開発も手がけている。

ブガッティEB110とアルフレード&ロベルト・ストーラ。パリ・デファンスで(1991年)ブガッティEB110とアルフレード&ロベルト・ストーラ。パリ・デファンスで(1991年)

その傍らで、1991年ジュネーブモーターショー出展のアルファロメオ『プロテオ』をはじめ、メーカーのコンセプトカー製作にも深く携わるようになった。

日本ブランドとのコラボレーションも拡大した。いすゞに加え、トヨタ、日産、ホンダ、三菱ともモデリングやコンセプトカー製作で仕事をした。3代目日産『プリメーラ』のデザインを示唆した2000年の日産『フュージョン・コンセプト』、三菱『コルト』に先行した2002年『CZ2』は、その代表例である。なお三菱との関係は、2003年『eKワゴン』をはじめ、プロポーザル用モデル製作で続くことになる。

■独自モデルに進出

ストーラ独自の企画によるモデルも徐々に始動していった。1991年には、当時30歳のアルフレードがフィアット『パンダ』をベースにしたオープンモデル『ミラージュ』のディレクションを行った。

ストーラ・フィアット・パンダ・ミラージュと、アルフレード&パオラ・ストーラ(1991年)ストーラ・フィアット・パンダ・ミラージュと、アルフレード&パオラ・ストーラ(1991年)

2000年製作・2001年発表の『S82スパイダー』は、従来から続いていたポルシェとの協力関係から生まれたもので、『ボクスター』986をベースにしたスペシャルモデル計画だった。この車は、ミラノ・トリエンナーレの企画展「世界で最も美しい自動車」に招待展示された。

ストーラS82スパイダー(2001年)ストーラS82スパイダー(2001年)ストーラS82スパイダー(2001年)ストーラS82スパイダー(2001年)

2001年にはメルセデスベンツ『Mクラス』を基にしたローマ教皇専用車、いわゆる“パーパモビル”を製作。2003年にはランチア『テージス』をベースにしたリムジン『S85』を製作、翌年のジュネーブモーターショーに展示した。加えてフィアットからの受注により、それを防弾化したイタリア大統領専用車も製作している。

メルセデスベンツMクラス・ローマ教皇専用車 (2001年)メルセデスベンツMクラス・ローマ教皇専用車 (2001年)メルセデスベンツMクラス・ローマ教皇専用車 (2001年)メルセデスベンツMクラス・ローマ教皇専用車 (2001年)

2002年には、ボクスター986をベースにしたストーラ『GTS』を展示。デザインは、かつてピニンファリーナで『ディーノ206GT』などを手掛けたアルド・ブロヴァローネ(1926-2020)に協力を仰いだ。

ストーラS85(2004年)ストーラS85(2004年)ストーラS85(2004年)ストーラS85(2004年)

■歴史を守り、次世代に繋げる

同年、創業者アルフレードの次男ロベルトの死去にともない、アルフレード(2世)がストーラの経営を引き継ぐことになった。従業員は1500名に達し、年間売上は2億5000万ユーロに達していた。しかし2005年7月、アルフレードは自身の株式を売却するとともに会長職を退く。

参考までに後年トリノの自動車業界は、大きな転換期を迎える。2010年にはフォルクスワーゲンがイタルデザイン株90.1%を取得。2014年には旧ベルトーネが1世紀以上続く歴史に幕を閉じた。2015年にはインドのマヒンドラ&マヒンドラがピニンファリーナを傘下に収める。

その後ストーラは「RGZグループ」という企業を経て、パーツサプライヤー「メテック・グループ」の一部門として現在に至っている。

アルフレード・ストーラ(左)とアルド・ブロヴァローネ(右)アルフレード・ストーラ(左)とアルド・ブロヴァローネ(右)ストゥディオ・トリノ RKスパイダー(2005年)ストゥディオ・トリノ RKスパイダー(2005年)

以来アルフレードは新会社「ストゥディオ・トリノ」に専念するようになった。同社はストーラを去る数か月前、妻マリア=パオラなどとともに設立したもので、フォーリセリエと技術コンサルタントを主な業務と定めた。

第1作は、ポルシェ・ボクスター987をベースにした2005年の『RKスパイダー』、『Rスパイダー』で、トリノ自動車博物館で発表したこれらは、ふたたびブロヴァローネがデザイナーを務め、ドイツのRUFオートモービルがパートナーとなった。翌2006年には、そのバリエーションである『RKクーペ』をカリフォルニアのクエールロッジで発表した。

また、往年のコンセプトカーのレストア・サービスも提供している。

ストゥディオ・トリノ RKクーペ(2006年)ストゥディオ・トリノ RKクーペ(2006年)ストゥディオ・トリノ RKクーペ(2006年)ストゥディオ・トリノ RKクーペ(2006年)ストゥディオ・トリノRKスパイダー(2005年)とRKクーペ(2006年)ストゥディオ・トリノRKスパイダー(2005年)とRKクーペ(2006年)ストゥディオ・トリノRKクーペ(2006年)ストゥディオ・トリノRKクーペ(2006年)

■トップデザイナーの共通点

今回、ストゥディオ・トリノを紹介するにあたり、アルフレード・ストーラにメールを通じてインタビューを行った。以下が内容である。

---大矢アキオ(以下AO):ストーラ時代には、いすゞピアッツァの開発にも参画しています。

---アルフレード・ストーラ(以下AS):私は19歳で学校を終えたばかりでしたが、よく記憶しています。背景としては、イタリアの著名デザイナーがデザインした自動車のマスターモデル/プレゼンテーション用モデルを、当時の日本メーカーが自力ですべて製作するのは、きわめて難しい仕事だったのです。私たちは精密性、許容誤差、細部に神経を払い、最先端素材を使用して製作しました。

ピアッツァで記憶しているのは、日曜の午前もモデリング工房で何時間も過ごしていたことです。ジウジアーロは我が社を訪れるたびマスターモデルを検証しては、修正を申し出ました。彼は当時まだ12歳だった息子のファブリツィオ(筆者注:ファブリツィオ・ジウジアーロ。現在GFGスタイルCEO)を、いつも連れて来ていたものでした。

---AO:あなたは、世界の第一線で活躍する著名デザイナーが、まだ駆け出しだった時代に一緒に仕事をしています。

---AS:ストーラのスタイリング・モデルやショーカーの分野では、メルセデスベンツが最も関係が深いクライアントであったことは間違いありません。私の記憶はまず、同社デザインのトップとして長く君臨しているゴードン・ワゴナーに結びつきます。彼が若き日に『SLR』を手がけていたのを思い出します。好青年であるとともに、当時から本当に素晴らしい人格者でした。

クリス・バングルとは、彼がフィアットに入社したごく初期の頃に出会いました。典型的アメリカ人で親切かつユーモラスでした。関係は、彼がBMWに移籍後も続きました。彼がミュンヘンで築いたキャリアは、計り知れないものがあります。

いすゞに関していえば、1998年に『D-MAX』のスタイリングモデルを2台製作したときです。一人のとびきり若い駆け出しデザイナーがいました。いくぶん内気でしたが優しい人物でした。彼の名はジョエル・ピアスコウスキー。今日では欧州フォードのデザインディレクターとして采配をふるっています。

---AO:偉大なデザイナーになった人々の、若い頃の共通点は見いだせますか?

---AS:共通していた点は、高いプロ意識と細部への神経です。そしてもうひとつ、若い時代は、ありのままの姿で振る舞っていた、ということです。自分を他者と違う者のように、ひけらかそうとはしませんでした。

ベルトーネ・ランチア・ストラトス・ゼロ(1970年)。2018年コンコルソ・ヴィラ・デステで撮影ベルトーネ・ランチア・ストラトス・ゼロ(1970年)。2018年コンコルソ・ヴィラ・デステで撮影

---AO:あなたのストゥディオは、コンセプトカーのレストアも提供しています。近年では1970年ベルトーネ・ランチア『ストラトス・ゼロ』を手がけました。半世紀以上前の名作から、精神的に何を学びましたか?

---AS:私にとってストラトス・ゼロは、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザに匹敵する芸術品です。実際に触れるうえに操縦するときは、喜びと同時に、責任感と予測不可能なことが起こるかもしれないという恐怖で震えが止まりませんでした。

私たちが施した作業は機械部分で、車両の使い勝手を向上させる目的で、エンジンの冷却系統を改善しました。

いっぽうで今まで気に留めなかったことで印象的だったのは、ドライバー左側にあるグリーンのディスプレイです。いわば1970年製のApple iPadがそこにありました。そうしたデザインの発想源について、デザイナーのマルチェロ・ガンディーニ氏に話したところ、彼は発表前年の1969年7月、人類がアポロ9号で月面着陸に成功したことに触発されたと語りました。

ベルトーネ・ランチア・ストラトス・ゼロ(1970年。修復前)。2006年トリノで撮影ベルトーネ・ランチア・ストラトス・ゼロ(1970年。修復前)。2006年トリノで撮影

以上が今日のアルフレード・ストーラのアクティビティである。近年は妻マリア=パオラとともに、カーデザイン関連学科をもつ各国の大学・教育機関とのコラボレーションで、後進の育成にもあたっている。

長年名車の産声を聞いてきたトリノの名士は今、フォーリセーリエだけでなく、名作の守護者として、未来の自動車界を担う架け橋として、新たな役割を果たしている。

《大矢アキオ Akio Lorenzo OYA》

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