カロッツェリア激動の時代を生きたセルジオ・ピニンファリーナ

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セルジオ・ピニンファリーナ
  • セルジオ・ピニンファリーナ
  • セルジオ・ピニンファリーナ
  • セルジオ・ピニンファリーナ(手前)と、(奥左から)パオロ、ロレンツァ、アンドレア
  • ピニンファリーナ・ミトス(1989年)
  • アンドレア・ピニンファリーナ(1957-2008)

7月3日未明に85歳で死去したイタリアを代表するカーデザイン&エンジニアリング会社『ピニンファリーナ』のセルジオ・ピニンファリーナ名誉会長は、企業経営者としての他にさまざまな顔も持っていた。

セルジオ氏は1926年生まれ。トリノ工科大学の機械工学科を1950年に卒業後、父バッティスタ・ピニン・ファリーナが経営していたボディ製作会社『カロッツェリア・ピニン・ファリーナ』に入社した。社長、会長などを経て2006年には名誉会長に就任した。

在任中はフィアットをはじめとする自動車メーカーの受託生産事業を拡大することで、一品製作を主体としていた従来型カロッツェリアからの脱皮を図った。

1966年にはイタリア初であり世界でもまだ珍しかった1:1スケール風洞を工場敷地内に建設した。1986年にはミラノ証券取引所に上場。非自動車部門を手がけるプロダクトデザイン会社を競合他社に先駆けて設立した。

その傍らでイタリア政財界の代表としても活躍。1979年から1988年まで欧州議会の議員を務めたほか、日本の経団連に相当するイタリア産業連盟の会長も1988年から1992年にかけて務めた。さらに2005年には、前前年に死去したフィアット元名誉会長ジョヴァンニ・アニエッリの後を受け、イタリア共和国終身上院議員に就任した。

日本との繋がりも深く、1989年の来日では東京モーターショーでコンセプトカー『ミトス』を発表。2004年から2007年にかけてはイタリア-日本ビジネスグループの副会長も務めた。

いっぽうで晩年には不運が続いた。2008年には長男で当時会長兼社長を務めていたアンドレアを交通事故で亡くした。

さらに受託生産の激減から、2009年には風洞設備部分を除くグルリアスコ工場を州政府に手放すことになった。2011年には、もうひとつの主力工場だったサンジョルジョ・カナヴェーゼ工場も閉鎖。それによってイタリア国内では、生産設備を伴わないデザイン&エンジニアリング会社に転身した。

近年セルジオ氏は、モーターショーの自社スタンドに姿を現さず、2010年5月に本社で開催されたピニンファリーナ創業90周年式典および本社展示館開館式にも参列しなかった。

イタリアの主要テレビ局では、7月3日のニュースでセルジオ氏の死去をピニンファリーナが手がけた歴代車両の写真とともに伝えた。

ピニンファリーナによるとセルジオ氏は、夫人、長女ロレンツァ、そして次男で同社会長のパオロ・ピニンファリーナに看取られながら自宅でこの世を去ったという。

《大矢アキオ Akio Lorenzo OYA》

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