浅間にレーシングサウンドが似合う理由は60年前にあった…浅間ヒルクライム2015

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浅間ヒルクライム2015
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2度目の公道を封鎖して開催された浅間ヒルクライム。実に125台ものエントリーを数え、イベントの規模は一気に膨れ上がった。そのためのトラブルもあったが、このイベント、これからも日本の自動車文化形成のためにも育って行って欲しいイベントである。

浅間山とレーシングサウンド、一見何ら関連性がないようにも思えるだろうが、実はそんなことはない。場所こそ違えど、浅間では日本初の本格的モーターサイクルレース、通称浅間火山レースが1955年から3年間開催され、高橋国光、北野元、生沢徹、そして伝説の名レーサーとして知る人ぞ知る、伊藤史朗などがこのレースから育って行った。言わば日本のレース発祥の地がこの浅間というわけである。

だから、ある意味では最もレーシングサウンドが似合う土地でもあるわけだ。この浅間火山レースを推進した人物こそ、地元で折衝にあたった星野嘉助氏。言うまでもなく星野温泉を開いた人物その人である。そしてその甥にあたる星野嘉苗氏は、軽井沢二輪車資料館を開館した人物で、その息子である星野雅弘氏が、現浅間ヒルクライムのディレクターを務めている。というわけで1955年に公道を閉鎖して開催された第1回浅間火山レースから今再び行動を閉鎖して開催されている浅間ヒルクライムは、見事にリンクしていると言って良いわけである。

公道を閉鎖してヒルクライムを行うにはそれなりの理由がある。最大の理由はナンバーの付いていないフォーミュラカーをはじめとしたレーシングカーを走らせること。そのためには一般公道ではどうしても法律的な無理があり、完全閉鎖が前提条件。それを実現できたのはやはり星野雅弘氏の尽力であると思う。

おかげで今年のレースには多くのフォーミュラカーや第1回日本グランプリを制した「ロータス23B」(勿論当時の現車ではない)や、ルマン24時間レースを制したフォード「GT40 Mark2」(これもルマン優勝車ではない)などが出走した。勿論浅間火山レースに繋がる2輪車も。

ただ残念なことは今年、アクシデントが発生し、けが人が出たことで初日の午後のセッションが中止になったこと。公道を閉鎖して開催するようになってまだ2年。成熟したイベントに育っていくにはまだ時間を要すると思う。 主催者のみならず、エントラント、さらにはイベントを側面支援する企業団体など、今後どのように発展させていったらよいかを改めて検討し、長く続いていく素晴らしいイベントになって欲しいものである。

《中村 孝仁》

中村 孝仁

中村孝仁(なかむらたかひと)|AJAJ会員 1952年生まれ、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾るクルマ好き。その後スーパーカーショップのバイトに始まり、ノバエンジニアリングの丁稚メカを経験し、さらにドイツでクルマ修行。1977年にジャーナリズム業界に入り、以来45年間、フリージャーナリストとして活動を続けている。また、現在は企業やシニア向け運転講習の会社、ショーファデプト代表取締役も務める。

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