奥沢線は、現在の東急池上線を運営していた池上電気鉄道の支線として開業し、目黒蒲田電鉄への合併を経て1935年に廃止された。それから78年近く過ぎた現在、廃止後に建立された「新奥沢駅跡」の石碑を除けば、名残といえるものは皆無に近い。
奥沢線の起点だった雪ヶ谷駅は、後に改称されて現在の雪が谷大塚駅になっている。奥沢線は雪ヶ谷駅ホームの蒲田方で池上線の線路から分かれ、右にゆったりとしたカーブを描いていた。
ただし、奥沢線が開業した頃の雪ヶ谷駅は、現在の雪が谷大塚駅から約100m五反田方に設置されていた。これを現在の地図に当てはめると、池上線と奥沢線の分岐点は、雪が谷大塚駅ホームの五反田方付近にあったことになる。何ともややこしい。
分岐点の先にあったカーブの線路跡地は、後の区画整理によって消失している。跡地の直接的な名残どころか、地図上の区割りからも奥沢線の名残を見つけ出すのは難しい。その先の直線区間は、跡地がほぼそのまま住宅地に転用されている。
新奥沢線の跡地沿いに伸びる生活道路を歩きながら、すれ違った老人に「ここが奥沢線の通っていた場所ですよね?」と尋ねてみても、「奥沢線? いやあ……よく分からんなあ」という答えしか返ってこなかった。
廃止から78年ということは、廃止前の奥沢線を見たことがある人も、若くて80歳前半だろう。そもそも、このあたりは廃止後に住民が増えている。物理的な名残はおろか、沿線住民の鉄路の記憶も、探し出すのは難しいのかもしれない。
奥沢線唯一の中間駅だった諏訪分駅は、調布女学校(現在の田園調布学園中等部・高等部)の南東側にあった。ここも線路跡地は住宅の列に飲み込まれているが、ホームなど駅施設があったと思われる部分だけ、線路跡地に沿う道路が南西側に膨らむようにしてカーブしている。おそらくは、線路沿いに設置されたホームを避けるためカーブしたのだろう。
廃線跡の散策に慣れた鉄道マニアであっても見過ごしてしまいそうな、ほんのわずかなカーブだが、これが奥沢線唯一の名残といえるかもしれない。