【ジュネーブモーターショー10】ベルトーネ、3年ぶり復帰の経緯

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ベルトーネ・パンディオン
  • ベルトーネ・パンディオン
  • マイケル・ロビンソン(左)
  • リッリ・ベルトーネ(左)とロビンソン(右)
  • パンディオンのヴェールを剥がす瞬間
  • パンディオンのシートを応用したルームチェアも公開した

トリノの名門デザインハウス、「ベルトーネ」が、3年ぶりにジュネーブモーターショー復帰を果たした。

話は2008年に遡る。ベルトーネ・グループは、車体メーカー「カロッツェリア・ベルトーネ」の経営危機を発端とする創業一族内の対立から、半世紀にわたり続けていたジュネーブモーターショーへの出展を取りやめた。

そうしたなか、2代目創業者・故ヌッチオ・ベルトーネの次女で、グループのデザイン部門「スティーレ・ベルトーネ」を率いていたマリージャンヌは、ジュネーブ市内の別会場でコンセプトカー『BAT11』を公開した。もし会社の経営が順調ならば、ショー会場で発表されるべき、米国の愛好家のために製作された一品製作だった。

ちなみに、10年にわたりスティーレ・ベルトーネを統率し、ある意味「顔」となっていたロベルト・ピアッティは既に部下とともに会社を辞し、2006年に新会社『トリノデザイン』を設立していた。

そのため、BAT11のスタイリングは、デイビッド・ウィルキーがディレクションした。

スティーレ・ベルトーネは、受託生産が激減した車体メーカー部門とは対照的に、比較的堅調な業績を保っていた。マリージャンヌは同年、新しいデザイン・ディレクターとして元ピニンファリーナでイタリア系米国人のジェイソン・カストリオータを抜擢。翌2009年4月の上海モーターショーと伊ビラ・デステ・コンクールで彼のディレクションによる『マンティデ』を発表する。彼らは、この車の少量生産の可能性も示唆した。

いっぽう、ヌッチオの未亡人でマリージャンヌの母親であるリッリは、同じ4月に新R&D会社「ベルトーネ・チェント」を設立。フィアットのデザイン部門で実績がある米国人マイケル・ロビンソンをデザイン・ディレクターに据えた。

ロビンソンは過去にランチアで『リブラ』、『テージス』、2代目『イプシロン』を手がけたあと、フィアットのデザイン・ディレクターに就任、その後デザイン学校「IEDトリノ」で教鞭をとっていた人物である。

この時点で、娘と未亡人それぞれが率いる“ふたつのベルトーネ・デザイン”が存在することになった。

この異例の事態が収束するきっかけとなったのは8月6日、トリノ破産裁判所管理下にあった車体メーカー部門および製造設備の、フィアットへの売却が決まったことだった。その一件と並行し、未亡人リッリには商標等の所有が引き続き認められる可能性が強まったのだ。

そうしたリッリ有利の流れを受けて、マリージャンヌはスティーレ・ベルトーネを同月に去り、カストリオータも9月をもって退職した。なお、カストリオータは現在、自身の会社を軌道に乗せるべく動いている。

ベルトーネの商標、特許および歴史資料の所有権をトリノ破産裁判所から取得することに成功したリッリは12月21日、従来のベルトーネ・チェントを持株会社に改組。その傘下に以前娘のマリージャンヌが率いてきたスティーレ・ベルトーネを含む関連5社を収めるかたちにした。

スティーレ・ベルトーネのブランド&デザイン・ディレクターには引き続きロビンソンがあたっており、今回のジュネーブモーターショーで公開したショーカー『パンディオン』も彼のディレクションによるものだ。かくして今回のジュネーブは、ベルトーネにとって車体製造部門無きあとの再スタートという記念すべき回となった。

ただしパンディオンの記者発表においてリッリは、「亡夫ヌッチオが語っていたように、鉛筆(デザインスケッチ)からキー引き渡し(納車)まで行なえる会社である」と強調した。それは、ベルトーネが総合的なデザイン&エンジニアリング会社であり、かつ一品製作にも対応する高い能力を今も備えていることを誇示したものといえる。

《大矢アキオ Akio Lorenzo OYA》

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